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春の湿原に咲く花を見に北へ北へと走った。すぐ近くの山の上にはいくつも名のある湿原があるのだけれど、何せ標高が高いのでまだ冬景色。そこではるか大町の北までやってきた。木崎湖畔の稲尾駅から東に入ったところにある居谷里湿原。人家に近い里山に囲まれた湿原だけれど、いつも静かに花が揺れている。
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 居谷里湿原から国道に戻り北上し、佐野坂峠を越えたところにある姫川源流、親海湿原に。白馬や小谷の雪解け水を集め、フォッサマグナの深い谷を急流で下る姫川の源流は、湿原のほとりから湧き出る小さな泉から始まる。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
先週はこの週刊のお知らせを作っている最中にパソコンがプッツン状態となり、いくら叩き起こしても「私、もうダメ…」と寝込んでしまう始末。そのまま修理屋さんに入院となり、翌日になって蘇生不可能と連絡があった。それでもハードディスクが生きていたので、中に保存されていたファイルを取り出すことができた。修理屋さんから返されてきたのは白いDVDが3枚だけだったので、まるで愛用していたパソコンがお骨になって帰ってきたようで、線香の一本でも手向けたくなってしまった。
その事態を参加しているソーシャルネットに書き込んだら、いろいろな知人からお悔やみや励ましや嘲笑が寄せられ、今やパソコンというものは使う人の人格の一部のようになっていることを実感した。それだけに、常日頃のリスクへの向き合い方が露見してしまい、わかっちゃいるんだけどねぇなんとかなるさぁ、というリスク管理の甘さを世間に曝してしまった。 不覚だと感じたのは、突然壊れてパニックなるほどいつの間にかパソコンに深く依拠していたことだった。こんなはずではなかった。思えば、手書きだった週刊のお知らせもパソコンで編集するようになってもう10年以上、カメラはデジタルになってプリントの代わりにパソコンの中に蓄積され、個人的にも業務的にも連絡は電子メールが主になり、おいおい、そうだよ、店のホームページなんてものまであるのだから、もう万全のバックアップ体制を敷いておかなければならなかったのに、まったく無防備だったのだ。すべて、使い手の頭が旧態依然のままだったことが問題なのだ。 こういうリスク管理の甘いおっさんが海辺で大地震に遭うと、大津波が来るという警報が鳴っていながら「まあこないだの津波が大丈夫だったんだから今度も…」と高みの見物を決め込んで、しまいには大津波にのまれてしまうのだろう。賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ、という見本を公開してしまったようなものだから、嘲笑もありがたいメッセージとして頂戴いたす。 蘇生不可能と診断されたパソコンの代わりにさっそく新しいパソコンを買ってきて、お骨のようになって帰ってきたファイルを入れた。パソコンのない日はわずか一日だけで、また元のように実際の机の上と同じように積んどくファイルをひっくり返しては資料を探す日々に戻った。 買ってきたパソコンは台湾製の39800円。ちょうど春物と夏物の入れ替え時期だったようで、処分品がかなり安くなっていた。外観のきれいな国産メーカー品に比べて、安価な台湾や中国ブランド製品は黒ずくめの外観で地味だ。でも、どこまでの何が必要かを絞り切って考えると、国産メーカー品は見せかけと必要以上の性能が多くて無駄が多い。国内生産をうたい文句にする製品もあったが、今や台湾は世界で最も信頼される電子機器生産地だから、ブランドにこだわらなければ台湾製は安くて良い製品なのだ。 パソコンに限らず、耐久消費財といわれる電気製品や車などの日本製品は、どうも必要以上の性能や装備を付けて価格を高くする傾向がある。それは多分、買う人の志向を先取りしたマーケティングによるものなのだろうけれど、その製品作りが一方でガラパゴスと揶揄される一種独特の発達の下支えになってきたのだ。モノとしての本質よりも市場でより売れるための製品作りという志向は、ガラパゴスのような店を運営するおっさんには受け入れられない。2012/5/22
一年前に新聞記事で見つけて購入し、店の壁に貼っていた岩手県釜石市の被災者の人たちのポスターがある。その後ポスターを作ったデザインプロジェクトが、その後どうなったか気になったのでウェブサイトを訪ねてみた。すると、なんとなんと、続編や続々編が次々に発行されていて、その収益から百万単位の援助金がポスターの舞台になった自治体に届けられていた。その後どうなった…ではなくて、ぼんやりしていたのはこちらのほうだったのだ。
ちょうど陸前高田で被災した八木澤商店の応援コーナーを作ったところだったので、さっそく新たに陸前高田のバージョンを購入して野菜コーナーの壁に展示した。最初に出た釜石のポスターは被災してから間もない時期の撮影だったので、誰もががれきをバックにした生々しさの中で、もう一度立ち上がろうとする強い意志をみなぎらせていた。ポスターの中の顔から発せられるエネルギーはギラギラとしていて、安穏と暮らす私たちに喝を入れているかのようだった。 新たな陸前高田のバージョンは、被災から数カ月たった真夏に撮影されたらしい。すでにバックにがれきはなく、代わりに背丈を越えるほどに伸びた夏草が家々が流された跡に生い茂っている。写っている人たちの顔も穏やかで笑みがこぼれ、数カ月とはいえ時間が被災地を変えていった様が読み取れる。陸前高田の人たちの表情が穏やかに思えるのは、子供たちやお年寄りが多いこともあるが、地震と津波の記憶の上に少しだけ積み重なった日常が、生々しさを覆い隠しているということなのだろう。決して癒されたのではなく、覆い隠しているだけなのだけれど。 それに比べると、検出されるかどうかのわずかな放射能の数値をめぐって、出たの出ないのと騒いでいる被災地からはるかに遠いこの地を含めた非被災地の反応は、実は幸福の裏返しなのだと思わざるを得ない。 図書館や書店の書架を見ていると、年明けごろから急速に被災地のドキュメントやレポートが増えてきた。いくつかを読んで感じたのは、ニュースや新聞記事では起きたことの全体とクローズアップされた一部分は見えても、たくさんの人が向き合わざるを得なかった地震と大津波という個別の大事態は見えてこない、ということだった。本の中から迸るのは常人の想像力が及ばない事態ばかりだから、まずはその厳しい現実にショックを受ける。そのショックに読む人が新たな想像力を構築する前に、さらに上回るおぞましい事態が語っている人以外の被災者に降りかかり、書いている人はその人たちの代わりに彼らの受けた事態を語らざるを得なくなる。その繰り返し。ニュースに取り上げられる大文字の出来事ではなく、自分たちと同じような平凡な市民生活を送っていた人に襲いかかった突然の生きるか死ぬかの大事態にこそ、この大災害の本質があると思う そうして獲得した被災への想像力は放っておけば風化してしまうだけだから、うまくエネルギーに転化させたい。被災直後のアドレナリンに突き動かされるような援助とは違い、言うにおこがましいけれど寄り添うように長く続けられる援助がこれから必要になるのだろう。自分たちに何ができるのか、探ってみたい。 2012/5/15
あちこちの田んぼに水が入り始めて、カエルの歓声が聞こえてくるようになった。すでに田植えを終えた田んぼもあって、これから4か月余り、稲作農家は田んぼの水加減に余念がない。田んぼの水の管理は自分の田に引く分だけでなく、川や水源から順番に流れてくる水路を整備することが大事で、地区ごとの共同作業が年に数回は行われている。田んぼで稲を作るのは山奥の隠し田でもない限り、ひとりだけで完結させるのは難しい。
日本の社会構造はムラ社会といわれて、今の世になっても古くからの地域のしがらみが残っていたり、都市部でも町内会という形で残されている。この抜け駆けを許さないような相互を監視する(ちょっと言いすぎのようだけれどとても実際的)システムは、田んぼの水を共有することから始まったのではないだろうか。もちろん、地域が共同で行うことは他にもたくさんあって、そのすべて古くてかなわないと言うつもりは毛頭ないけれど、日本人の考え方の根底にある横並び意識や主体性の無さは、この田んぼの水を共有することに大元があるのではないか。 それを農耕民族という一方で、痩せた土地と寒い気候で作物を育てるよりも動物を捕まえて食べてきた狩猟民族の人たちは、限られた獲物を他人より多く得た者が繁栄するのだから、隣の家はすなわち競争相手になる。自分でとらえた獲物を一人占めできる分、自分に降りかかる危険や災難もひとりで乗り切らなくてはならない。だから自己主張をして自分の利益を守ることが当然だし、生じたもめごとの責任を他人に追わせようとする交渉術に長けている。 原発を巡っては、大事故を起こした日本の政府が将来的なビジョンもなしにまた原発を動かそうとしているのに比べ、ドイツはさっさとすべての原発を将来的に廃止するという決定を下した。しかも、直前まで原発を推進していた首相が180度方針を転換するという思い切り方だった。 日本とドイツは戦争でともに敗れ、近隣諸国に多大な禍根を残したこと、モノ作りに長けていて経済的に復興を遂げたことなど共通する部分があるけれど、戦争の禍根への向きあい方にしても、原発と放射能への向きあい方にしても、その対処の仕方は日本とドイツまったく対照的だ。ホロコーストは誤りだったとする歴史観や、放射能は管理しきれないリスクだとして原発を止めようとする施策は、戦争の禍根に謝罪しようとすると自虐史観とされ、放射能のリスクよりも経済がしぼむリスクを優先して救おうとする国からみると正しく思える。 でも、私たちの祖先からの長い歴史を振り返ってみると、それは無い物ねだりなのだ。ドイツ人には常にリスクと向かい合って生きてきた狩猟民族としてのメンタリティが色濃く、日本人には田んぼの水を共有して横並びで生きてきた農耕民族としてのメンタリティで物事を考えている、ということだけ。日本の国がドイツのように物事を決めるようになることは、今後数百年の間に起こり得ないだろう。2012/5/8
花が咲き始めたと思ったら、あっという間に5月連休に突入。どこか遠くに出かけるでもなく、足元の花に慰められる日々。
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今週末に北海道の泊原発が定期点検に入る予定になっていて、これで国内の原発はすべてが停止することになる。とりあえずはめでたしと言いたいところなのだけれど、実際には再稼働を進める動きが以前に増して強くなっているので、今後のことを考えると一時的にすべてが止まったことなど何の意味も持たない。
一年前に起きた福島第一原発の事故をスタートにして、まずは時間をさかのぼって原発が推進されてきた経緯をたどってみる。原発は二酸化酸素を排出さず地球温暖化に貢献するクリーンなエネルギープラントで、地震が起きたって強固な建屋はびくともしないので災害にはならず、技術の優れた日本では管理が徹底しているから事故など起こりようがない、という安全神話を電力会社と役所がグルになってばら撒いてきた。なんと言っても彼らには、広報のために使える半端じゃない金があるからね。この信州からも浜岡原発に、小学生たちがバスで招待されて洗脳されてきた。 また福島第一原発の事故をスタートして、今度はその後の1年2カ月の経緯を振り返ってみる。地震で建屋や原発本体は壊れなかったものの、津波ですべての電源が失われるという本質的な設計や危機管理から比べれば「大したことのない想定外」で、あっけなくメルトダウンしてしまった。そして、事が起きてからの対応や情報の出し方はどうだったか。 この事故を境にした前後の原発をめぐる電力会社と役所、政府の対応や物事の進め方を見た人で、この人たちを信頼できる、と言える人は果たしてどれだけいるのだろう。トップになる首はすげ変っていても、ほぼ同じ人たちが今度はテストをしたので大丈夫ですと言ったとして、どうしてそれが信頼に足るのかとても理解ができない。 私、おかしいでしょうか? 10の地域に分けた電力会社が、全国の発電も送電も販売も電力をすべて牛耳って、かかったコストに経費をすべて上乗せした料金を請求するというシステムは、世界のいわゆる先進国を見渡すととても異常な公益事業だ。形の上だけは競争できるようになっているものの、ゾウとアリが同じ土俵で勝負せざるを得ないように仕組んであれば、そんなものは意味をなさない。競争もない世界はパラダイスだから、いったんその居心地の良さを知ってしまえば誰だってそれを維持したくなる。公益という事業の目的はあっさりと身内の営利にすり替わる。 そんなガラパゴス的電力事業なので、原発の立地自治体に巨額の交付金をばら撒くことができる。これは一種の覚醒剤だから、いったんもらったら二度とやめられない。住民は子供の医療費がタダになったり老福施設が安く使えたりするようになれば、自分のフトコロが豊かになったように錯覚するので、原発がなくなっては困ると思うようになる。 電力事業が完全に民営化され、同じ地域の中で複数の電力会社を選べるドイツなどでは、原発の立地のための交付金などあり得ないから、昔から大変な反対運動が起きたそうだ。その反対運動が実を結んでいくつもの原発建設が撤回されたのは、交付金という覚醒剤入りのあめ玉がなかったので、住民が自分のリスクとして原発をとらえることができたからなのだ。 原発のリスクはいったん事故が起きれば、交付金をもらっている小さな地方自治体の域をはるかに超えて世界中に及ぶことは、この1年2カ月の間で誰もが十分学んだ。それなのに、なぜいまさら「再稼働には地元の合意が必要」なのだろう。合意が必要なのは地元自治体ではなく、事故の際に被害を共有せざるを得なく、電力供給に節電で協力する利用者全員ではないのか。私は絶対に合意しないけれど。2012/5/1
先週の話の中で、タバコを吸い始めたのはほんの出来心からだったと書いたが、タバコなんてものを吸い始めるのに大層な理由などはいらないのだから、みんな出来心遊び心でハマってしまうのだ。だから見るからに高校生という出で立ちの少年たちが、粋がって煙草を吸っているところを見ると、昔の自分を見ているようで懐かしくなってしまう。
私たちが高校に進学したころは高校の学園紛争が終わって、白けた雰囲気が学校を支配する時代だった。今とは違って、私が育った東京では私立よりも都立の学校が優位とされていて、成績が上位の連中はこぞって旧制中学からの歴史を誇る上位校を目指した。学力成績も悪かったが、なぜか中学の担任に毛嫌いされてしまい、最下位の都立普通科校さえ受けさせてもらえなかった落ちこぼれは、私立のミッションスクールに拾われて高校生活を始めることができた。 ふてくされた高校生は、大体がタバコやパチンコに手を出す。入った山岳部も山に行けばなんでもアリの世界だったから、1年生のうちにすっかり常習喫煙者に成長していた。けがをして私は参加できなかった一年生の時の夏山合宿では、帰りの特急列車の食堂車を占拠してタバコを吸いまくるわ、ビールを飲んで酔っ払うわの大騒ぎを演じて問題になった。しかも数名が酔っ払って上野駅から荷物を担いで家まで帰ることができず、駅のホームでビバークをするに至った。 なぜ高校生の暴走を止める役目の大人がいなかったのか、と不思議に思われるかもしれない。実は臨時の顧問が付いて行った。しかし、臨時の顧問は初めての本格的な登山で疲れ切って座席で寝込んでいたらしい。上野についてみると、どうも生徒たちの様子がおかしい。顔が赤いし、酒臭いし、まともに歩けないヤツまでいる。事の顛末は想像できたが、今更取り繕うのは不可能なほど、生徒たちはデキ上がっていたらしい。その騒動のあおりで山岳部は半年間休部となったが、なぜか臨時の顧問は翌年から正規の顧問になった。学校から責任を問われたのかもしれないが、それがどうであったのかは知らない。 その臨時顧問だったT先生とは、その後公私にわたって家族ぐるみのお付き合いが続くのだが、T先生が42歳になるときに一緒に南米の山に出かけることになった。28歳の私からは、いくら富士山頂でのビバークや雪上訓練を重ねても、42歳はかなりのトシに思えて登れるのかどうか不安だった。本番では案の定、4200m付近で高山病の脳浮腫の状態に陥って意識を失い、馬に足と腰を縛り付けて下まで下ろすことになった。意識が朦朧とした状態が数日続いたので、このまま馬が来なかったら死んでしまうのではないか、とずいぶん悪い夢を見たが、下に下りて1週間ほどで回復して5000m付近まで自力で登って来られたので安心した。 私立の学校は転勤がないので、T先生はその後もわが母校に勤め続け、数年前に定年を迎え退職しタイのチェンマイに移住した。そこで少数民族の孤児を里親となって育てるプロジェクトを立ち上げ、教会まで建てた。ところが今年になって日本に帰国することになり、向こうで拠所ない事情でもあったのかと心配したが、なんと母校の校長として迎えられることになったのだった。臨時顧問の顛末からちょうど40年目のことだった。 誰にも出身校という学校がいくつかはあるはずだ。すべてを母校と呼ぶこともおかしくはないのだが、住んでいた行政がただ割り振った学校と、たくさんの選択肢の中から自分が選んだ、あるいはここしか入れてくれなかったという消極的選択の上での学校とでは、その帰属感に強弱があってもおかしくはない。私の場合は実に消極的選択でありながら、結果的には今に至るまで母校と呼べる学校は、このミッションスクールの高校しかありえない。 かつては吹き溜まりのような荒んだ時代もあったが、今のわが母校は大層人気があって入るためのお受験が難しくなってきているのだそうだ。何せ校長は臨時顧問で山に付いていったら生徒は酔っ払って騒ぐし、南米では死にそうになって馬に縛られるし、タイでは孤児の面倒を見て育ててきたT先生だから、これからは面白い学校になることだろう。2012/4/24
莨という字を読める人はもう少ないことだろう。百害あって一利なしと言われるのになぜくさかんむりに良なのかは、日本に伝わった400年前に遡らないとならないので割愛するが、今やこれほど字と実態が離れたものも珍しい。莨はタバコと読みます。
私はこの莨をやめて今年でめでたく10年を迎えたが、今や莨の煙だけでなく匂いをかいだだけで不快になってしまう。それでも30年も吸い続けて家族や周りの人にさんざん迷惑をかけたので、止めたいのに止められず、屋外の収容所のような喫煙所であくせくと煙を吸い込む人たちの気持ちもよ~く分かる。止められないということを認めず、「おれは莨が好きなんだ」とうそぶく気持ちもよ~く分かる。 肉体労働に従事するときに、莨は「一服する」と言うように休みの代名詞もなる。吐き出す煙はその場で空に昇って行くから、吸わない人に迷惑をかけずに済むし、疲れを感じ始めた身体を莨がやわらげてくれる・・・ような気がする。デスクワークや対人関係で緊張を強いられる場面では、その緊張を和らげてくれる・・・ような気もするが、周りの人は大変な迷惑を被ることを吸っている本人は自覚していない場合がほとんどだ。止めてしまえばよくわかるのだけれど、どちらの場合も吸わなくたって同じで、これこそ依存性の最たる現象だった。 ほんの出来心で吸い始めた莨に囚われて何回もタバコのために外に出なくてはならず、一日に数百円が煙になり、やはり数百円もの税金を取られる。アホくさいからもう莨なんか止めようと思うのだけれど、時間がたつと無性に吸いたくなって火をつけてしまう。でも、ある日、体調を崩して高熱が出たときを境に止めてみた。一日目を乗り越え、最大の難所である二日目の朝飯後も乗り越えると、今度はせっかくここまで我慢したのに後戻りするのが悔しくなって一気に止めてしまった。しめしめ、小心者は何事も後戻りするのが怖いのだ。 しかし、莨を止めると今度は体重が増えてしまった。72kgから数カ月で一気に80kgに。見るからにデブになった。おまけに毎晩焼酎を飲んでいた影響で膵臓に痛みが出始めた。でも、莨を止めたという実績は大きな自信になっていて、食べる量を減らして体重を戻し、毎晩の焼酎も止めることにそんなに抵抗はなかった。やればできるのだ。 それから10年がたち、この間、莨を吸いたいと思ったことは一度もなかった。莨を吸わなくなって気付いたのは、たばこを吸える場所が少なくなっているのは、莨の害に敏感な人が増えたこともあるけれど、家が密閉構造になってきたからではないかと気がついた。昔の家は外と隔てる窓や戸にわずかな隙間があった。家の中の仕切りも障子と襖で、鴨居の上には欄間が切られていた。だから空気は一つの部屋だけにとどまることなく、まるで呼吸するように外気と入れ替わっていたのだ。だから、莨の煙が部屋にこもって壁が黄色くなるなんてことも、余程のヘビースモーカーでなければ起きなかった。 でも、昔のお父さんは家に帰ると着物に着替えてどこでもたばこを吸っていたから、家族は常に莨の煙を吸わされていた。列車の中でも各座席の窓際には灰皿があって、莨が吸えるのが当たり前だった。今では受動喫煙だなどと眉をしかめて叱られることだけれど、昔はどこも寒いかわりに密閉性が緩かったから、莨の煙にも寛容だった。背もたれが板張りの客車でゆるやかに立ち上る莨の煙は、紫煙という名がふさわしいなかなか風情のある光景だった。 さて、莨ではないけれど、最近になって再び制限する必要に迫られてしまった。どうも必要以上に食べ過ぎているらしい。年々身体の代謝量は減っているのに、食べる量は変わっていないから人間フォアグラになってしまったのだ。でも大丈夫。いろいろ悪い生活習慣を克服してきたから、今回も修正できる自信あり。数年前に食べすぎを克服するために「胃はまた縮む」を座右の銘に加えたが、今回は「いつまでもデブだと思うなよ」というベストセラーからパクッて「いつまでもバカだと思うなよ」を加えようかと思う。2012/4/17
先週の爆弾低気圧はすごかった。だいたい信州までたどり着く台風はいつもヘロヘロで台風とは名ばかりのおいぼれなので、今回の低気圧も高をくくっていたら、家がギシギシと呻き声をあげて吹き飛ばされそうになった。我が家は伊那谷に向かって開けた丘の上なので、南風が強いと本当に家が飛ぶかと思うことが過去何度かあったが、今回は数年ぶりにその恐怖を寝ながらにして味わった。
今回の爆弾低気圧に関しては、前もってかなり荒れるという情報が流された。首都圏では朝から電車が間引き運転をし、会社は社員の安全を確保するために早い時間で仕事を打ち切り、経団連は会社員が一斉に帰宅すると混雑に拍車がかかるので終業時間をずらすよう加盟企業に要請を出し、マスコミは「外出は控えるように」と繰り返し言い続けた。すごい対処の仕方だと思ったのだけれど、おかげでわが店はすっっっっかりとお客さんが来なくなってしまった。どうしてくれるんだよ・・・、とほほ。 その爆弾低気圧に対する機敏で大仰な対処の仕方を見ていて、震災時の帰宅困難騒ぎの二の舞を絶対に繰り返すまいという関係機関の強い意思を感じた。強風で交通機関が止まり、荒天の中で数百万人の人が家にたどり着けない事態は、昨年の震災の夜よりも厳しい事態になることが予測できたからなのだろう。都市とは何とも脆弱で砂上の楼閣のようなものだと、東京から遠く離れて憐れんでしまうのだが、大げさとも思える対処で人の注意を喚起したことは、過去の教訓を生かすことができたという点でよかったと思う。 人間はこうして過去から学んで経験を未来に生かしていくものなのだから、やはり一年前に起きた忌まわしい原発事故の経験も未来に向けて生かすべきなのだ。 原発事故で直接的に人間の命が失われることはなかったが、原発から放出され、いまだに漏れ続けている放射能で影響を受けた生命、地域の広さ、海水、人間関係などは、人間の生命の数とは違う尺度で重く沈んだままだ。原発が必要とされる最大の根拠にいつも経済への影響が持ち出されるけれど、実際に経済で潤うのは法人という制度上の人格で、生命としての生物としての人間はほんのわずかだ。ニューヨークで若者が叫んでいる1%と99%の問題は、ここにも同じように存在する。 電力というエネルギーの恩恵も原発を必要とする根拠だけれど、発電するための方法は原子力だけではない。無限ではない石油に依存するのも、石油を消費することで増えるとされる二酸化炭素が環境に悪影響を及ぼすといっても、巨大ダムの建設が川の生態系を破壊するとしても、原発を動かし続けることで生み出される放射性廃棄物に含まれる放射能の量と、その危険性と、管理し続けなくてはならないコストと、時間と、万が一とはもう言えないトラブルの可能性を考え合わせたら、もう、原発のほうが割に合わないことは明明白白、火よりも明らか、お猿のお尻は真っ赤っかではないか。 ドイツは福島の原発事故が起きるや否や、原発推進だったメルケル首相が一転して脱原発に舵を切った。そのメルケルが「転向」した根拠は、あの技術水準が高い日本でもコントロールできないような技術は危険だ、と判断したからだという。ヤバいと思ったらやめる、道を間違えたら引き返す、さまざまな中傷を受けても当たり前のことができる政治家なのだ。われらが島国の人たちはどうか? 爆弾低気圧への対処で、一年前の震災の教訓が生かされていることが分かった。ならば原発についても今後の対処が問われても当然だろう。付焼刃的で再開するための踏み絵のようなストレステストではなく、電力会社も原発メーカーも交付金目当ての自治体も蹴とばして、大きな今後のエネルギービジョンを描くべきだ。そこに今回の事故で得た経験に基づく対処が盛り込まれるなら、原発は廃止にならざるを得ないはずだ。2012/4/10
3月が終わり、一年の節目が過ぎた。今年の我が家は、子供たち4人のうち3人が卒業年度を迎える年だった。4月になってみれば、それぞれが大幅に予想の範囲を超えことなく、何となくそれらしく収まる者は収まり、佇む者は佇むことになった。3人もいっぺんに進路を決めるなんて大変だったでしょうとおっしゃる方もいらしたけれど、人間の基本は生きることであってどこに所属するかではないのだから、それぞれの立ち位置が周りの人たちとどう違っていても一向に気にするな、という親の意向を最大限に汲んだ結果となった。
大学を卒業する年度だった息子たちには、入学した当初から「就職のために大学に行くのではないのだから、世の中の動きにそそのかされて早くから就職活動などするな」と言ってきたので彼らはそれを忠実に守り、卒業が間近になるまでなにも決めようとしなかった。 長男は、一年次の不調が響いて単位不足となり卒業はできなかったが、残した単位を履修して卒業するための学費を自分で稼ぐために、IT系の契約社員に収まった。それは非正規雇用という言い方もできるけれど、すでに2年の紆余曲折を経た彼が、親からの自立と苦労して入った大学の卒業を両立させるための苦肉の策だった。 次男は小さな会社に就職した。4年の秋から就職活動を始め、いくつかの会社にふられたらしいが、従業員数十人という会社にたった一人の新卒社員として迎えられ、工場がある愛知県に住むことになった。まず1年目は、近くの工業大学に通って金属工学を学ばせてもらうそうだ。生活道具を積んで、愛知の会社の近くに借り上げてくれたアパートまで送っていくと、工場長が自ら出迎えてくれた。アットホームという言い方もできるけれど、その狭い人間関係に耐えられるかどうか一抹の不安もある。 近年の就活事情では、エントリーシートを何十枚も出して、数件の面接にこぎつけても次々と落とされ、まるで自分の存在が否定されているかのように落ち込む学生が多いと報道されている。経済情勢が厳しいから募集人数が少ないということもあるけれど、誰でもエントリーできるように間口が広くなった分、あるいは小さなころから大事にされて育ってきた分、学生たちが自分を高く買い被っていることもあるのではないだろうか。子供のころからの教育期間を終え、社会に出て働き始めるところで「良い会社」という果実を求めてすぎてはいないか。ここはゴールではなくてスタートなのに。 次男が就職した会社のような所は、今どきの就職活動に励む学生たちから見れば、選択の候補にもならないよう会社だろう。地味だし、小さいし、地方だし。それでも、まず大学を出たばかりの自分に何ができるのかと考えれば、拾ってもらったことに感謝しなくてはならない。同世代の仲間には恵まれず、自分より年上の人ばかりで話が合わなくたって、いろいろ教えてくれるうえに給料までくれて、しかも家まで用意してくれるなんて全く破格の待遇ではないか。 息子たちにもう一つ言い続けてきたことは、「30歳までにやることを決めろ」ということだった。逆にいえば、30歳までは何をやってもいいということ。さらに言えば、30歳まではいろいろやってみろということ。20代前半で知りうることなんて、世の中のほんの片隅の自分の興味がある分野だけなのだから、いろいろなことに首を突っ込んで見た方がよいのだ。がんばれよ。2012/4/3
暖かくなって、ようやく外を歩くのにダウンジャケットは必要なくなってきた。ダウンジャケットは意外と首回りが汚れるので、しまう時はちゃんとクリーニングしてからでないと、秋になって再び着るときにがっかりすることになってしまう。今はクリーニング屋さんもダウンの扱いに慣れているからダウンがペッタンコになってしまうことはないけれど、昔は一度、高いジャケットをだめにされてしまったことがある。
そもそもダウンジャケットなどというのは街着として着られるようになってからのもので、もとは登山用で羽毛服(うもうふく)と呼ばれていた。ナイロンの薄い生地に羽毛を詰めた羽毛服はモコモコとしていかにも温かそうであこがれの一品だったが、アルバイトが日給3000円の時代に15日分の日給を必要とする代物で、ビンボーな学生には高嶺の花だった。 その羽毛服を、大学山岳部の先輩がタダでくれるというので喜んでもらったのだが、生地から羽毛がどんどん抜け出る粗悪品で、それを着て電車に乗っていると、前の座席に座っていた女子高生の制服にわが羽毛服から飛び立った羽毛が次々と着地して、どこから飛んできたんだろうと女子高生が友達と顔を見合わせていたこともあった。 そのころはフランス製の製品が中心で高価だったが、やがて中国産の安価な羽毛服が輸入されるようになり、だんだん山用品の羽毛服から街で着るダウンジャケットになっていった。今やだれでも1枚持っているほどの普及版アウターになり、ちょっと不思議に思うことが出てきた。果たしてこんなにダウンが普及して、その羽毛はどこからやってくるのだろうか、と。 ダウンとは水鳥の胸の羽毛のこと。主にガチョウのものが良いとされていて、1枚のダウンジャケットには数羽分のガチョウの羽毛が使われているという。ということは、それだけの数の命が奪われているということで、われらはガチョウの身ぐるみを剥がして着ているわけなのだ。北欧などで生産される一部の高級品は、ガチョウが自分で毛繕いの際についばんだ羽を集めて作るそうだ。安い中国産のアヒルの羽毛も使われているが、それは北京ダックの副産物だという。でも圧倒的に多いいわゆるグースダウンをむしった後のガチョウは、いったいどうなっているのだろう。 日本ではガチョウを使った料理というものが一般的ではないから、ガチョウの料理など想像がつかない。まさか、羊のようにむしってももう一度毛が生えてくる、なんてことはないだろうな。そういえば、ガチョウに餌をたくさん与えて運動させず、無理やり肝臓を肥大させたフォアグラは、世界の三大珍味と呼ばれてフランスで珍重されている。羽毛はむしられるわ、無理やり脂肪肝にさせられるわで、ガチョウはひどく不遇な鳥なのだ。フォアグラの生産はあまりに酷い動物虐待だ、と生産を禁止する国も現れているけれど、フォアグラを生産して食べている国の人たちは、われらが島国でクジラを食べるのを野蛮な文化だと言っていないだろうな。 ところで、先日私は病院で内臓の具合を超音波で調べる検査を受けた。その結果、中度の脂肪肝であるとの宣告を受けた。何を隠そう、人間フォアグラなのだぞ。2012/3/27
今週の月曜の午後は、久々に長野市まで遠出。善光寺の裏通りへ。
![]() 何の変哲もない古い古い商店に見えるし、シャッターの上には「ビニール金松」と書かれているけれど、中はカフェ、古本屋、ギャラリーが入っている。なんか、前に見たことがあるような気がしたら、古本屋のOh塚さんのブログに載っていたこれだった。 ![]() ![]() カフェから奥に進むとマニアックな古本屋があったが、定休日だった。どうも古本屋はこんな古民家再生プロジェクトのキーテナントになっているらしい。カフェのテーブルで話をしている人たちは、どうやらこの奥にあるプロジェクト事務所の人たちのようだった。 ![]() ![]()
とうとう信州に来て20年が経ってしまった。家財道具と子供たちを満載して小仏トンネルを通り抜けたときの、あの何とも言えない感慨を覚えた東京脱出から20年。その間に東京はいろいろ変ってしまって、たまに東京に出ると浦島太郎になったような気がする。自分で生活を組み立てるようになってからの時間を考えれば、もう信州暮らしのほうが長いのだから、そろそろ玉手箱を開けてみてもいい時期かもしれない。
この20年で何が変わったかと振り返ってみると、通信環境が全く変わってしまった。電話とファックスから、ケータイとインターネットに。テレビも見ずあまり人付き合いを好まず、連絡を頻繁に取り合う友人も多くなかったので、それほどその変化を実感することはなかった。それゆえにふと気がつくと、今までになかったコミュニケーションの方法や取引や場所が生まれているのに、積極的に加わることなく過ごしてきてしまった。 今までの延長線上を生き続けていくだけならば、あえてそこに加わる必要もないと思うのだけれど、今まで生きてきた世界とは別のところに新しい世界ができつつあるのに、それを知らないということは世界の半分を無視するということになるわけで、これは大変もったいないことだと気がついた。そこで、遅まきながら少しずつ新たな世界にも足を踏み入れることにした。 なんと文字数ばっかりを稼ぐ前フリを書いてしまったが、要するにソーシャルメディアに参加したということ。具体的にはフェイスブック(FB)。なぜミクシィではなくFBだったかといえば実名登録が原則だったから。時代遅れのおっさんは、自分に仮名を付け仮名の相手とお話をするというネットの世界に馴染めない。だから実名で顔写真も公開するFBは、何となく実社会に近いから入りやすかったのだ。 名前や住所とともに出身校や趣味を入力して登録すると、すぐに高校山岳部の後輩たちから「お友達リクエスト」が来た。なんでお前らと「お友達」なんだよ、などと威張ってはいけない。彼らのほうがこの世界では先輩なのだからありがたくお友達になってもらう。彼らはもうすでに相当使いこなしていて、毎日の出来事や動向を一日に何度も書きこんでくる。この後輩たちとの4~5歳の差は、自分より上の4~5歳とは随分と違いが大きいと昔から感じていた。彼ら以降の後輩がたくさん登録しているのに比べ、彼ら以上の世代がほとんど見当たらないのは、1960年生まれあたりに世代の大きな峠があるのかもしれない。 このソーシャルメディアという世界が面白いのは、個人的な日々の動向だけでなく、それぞれが興味を示したニュースやブログをリンクとして載せてくること。自分ひとりの視野では入ってこない情報や言論が、ある人の個性を反映した範囲で「これが面白かった」と知らせてくる。「どれどれ」と開いてみると、全く興味のないものもあるが、どれも自分のアンテナにはない感度の新鮮さを感じて面白い。今まではネットを使っても自分の興味のある畑ばかりをほじくっていたが、他人のアンテナを借りるようになると、知らなかったことを知るようになるスピードが全然違う。 ただし、今の状態はアタマがスポンジだったおっさんが、ソーシャルメディアの海に出て「いやあ広いな、大きいな」とはしゃいでいる状態。スポンジが潤って飽和状態になると、おっさんはまた「情報洪水でミソも×ソも一緒に流れてくる」などと言い出すかもしれない。その時は「あいつのアタマの容量はこんなものなのだ」と笑われても仕方がない。 FBはその名の通り顔写真を掲載する場所があるのだけれど、日本人はかなりの割合でイメージ写真やイラストを使っている。かく言うおっさんもその一人。なぜ素顔を載せないのかといえば、この数年というもの自分ひとりが映っている写真を撮ってもらったことがほとんどない。特に坊主頭になってからはない。だから載せられるような写真がないのだ、ふふふ。こんなことだと、もし突然に天に召されることになったら遺影に困るだろうな。息子はどんな写真を載せたのかと覗いてみると馬のお面を被っていた。娘は遠い後ろ姿だった。どいつもこいつもシャイなのだ。2012/3/20
温かな雨が上がった今朝、愛犬みかんと一緒に野山を歩きながら、いくつかの春を見つけた。みかんがしたあとを片付けようと穴を掘ろうとしたら・・・
![]() ふきのとうが出ていた。てっぺんに乗った土は、出して気持ち良くなったみかんが後ろ足で飛ばしたもの。例年に比べるとずいぶん遅い初物だけれど、今年は寒かったということなのだ。しばらく地面を見ながら歩いていると、心なしか昨日の雨で道草が青くなってきたような気がする。オオイヌノオフグリとツメクサときどきヒメオドリコソウ。 ![]() ![]()
ある高名なコンピュータ研究者の著書の中に、「文系の人は物事を感情で考える」という一節があって、思わず読みながら「それは違うぞ」と呟いてしまった。いわゆる理系の人たちが物事を理論で考えるとされるのに対して、われら文系の人間が考えるときにより所にするのは感性であって感情ではない。よく似ているのだけれど、ちょっと違う。ただ、困ったことに物事を考えたあとで理解するときに感情が顔を出し、論理的な理解に至ることを妨げることがある。これが理系の人たちから見ると、何事も感情で考えてしまう人たちに見えてしまう原因なのかもしれない。
どんな人でも4つのタイプに分類してしまう血液型の性格判断のように、人を理系と文系に分けてしまうのは愚かなことだとは思うけれど、物事を理解するときに理(ことわり)をより所にするか、感性をより所にするかの違いは、最終的にたどり着くところがかなり違ってしまうことがあるだけに、結構大きな違いだなのだ。あえて言うまでもないが、何事も感覚的にとらえることが多い私は、典型的な文系人間だ。それでも全てを感情で考えているわけではない。 大震災から一年が経って、何が復興を妨げているのかと考えてみると、この理(ことわり)と感情の対立なのではないかと思う。現実や数値など理で解するべきときに感情が入り込むので、きちんと理解されていないことが多い。それが余計な対立を生みだしてしまう。大文字焼に陸前高田の松を薪にして使おうとしたら、沖縄の子供たちに青森から雪を贈ろうとしたら、放射能が心配だからやめろという声が上がって実現しなかった。これは対立というよりも無知というべきなのだろうけれど、元をたどれば理で解さずに感情の赴くままに振る舞った結果だろう。 理と感情の相容れない理由は、数値の厳然さと、人によって受け取り方が違う感情の曖昧さが、水と油のような関係だからだ。数値は曖昧さを受け付けないが、曖昧さは何でも受け入れてしまうから、厳然とした数値だって自分に都合よく解釈してしまう。だから、数値を感情的に解釈することが多く、風評被害というものを生む原因になっている。 放射能というリスクは数値で表されるから、避けようとすれば徹底して避けることができる。今の世の中には数値では表せないリスクの方がたくさんあって、それはリスクとしても認識されていないことさえ多い。たまたま数値としてよく見えてしまうだけに、放射能のリスクには誰もが敏感になるが、検出される数値がそのままのリスクに結びつかないという曖昧さもある。 数値を知ることはリスクを避けることになる、ということに異論をはさむ余地はないが、数値を感情的に追って闇雲にリスクを避けようとすることが、すなわちわが身を守ることにつながるのとは思えない。放射能の数値を知りたいと思うのであれば、検出された数値は数値として割り切って理解して受け入れるべきだ。感情的に数値を受け取るのであれば、むしろ人間は誰でもいつか死ぬものだという無常観を身につけた方が、この世を永く生きられるだろう。2012/3/13
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