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横殴りの雪つぶての中を、安曇野の「蔵久」にやって来た。毎年極寒期になると、この造り酒屋の旧家の雪景色を見ながら、カミサンと一年の時の流れを振り返りながらとりとめのない話をする。今年は池がすっかり雪に覆われていて、飛んできたモズが「チェッ」と舌打ちしていた。
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めぐりめぐって1月も下旬。早いもので、大震災の一周年が視界に入ってきた。津波が破壊した街並みは徐々に復興しつつあると聞くけれど、自分の目で見て感じたわけではないので、いまひとつどんな様子なのか実感がわかない。
阪神大震災の時は、震災から1カ月ほどたった頃に車にたくさんの支援物資を積んで神戸の公園に行き、ボランティアもどきをしたことがあった。その時に感じたのは、表面的なことだけかもしれないが、たとえ家を失ったとしても、生きている人は意欲がある限り立ち直るのが早いということだった。 痛々しさを感じたのは、道路に放置された瓦礫だった。子供の本やおもちゃ、学年や名前が書かれた体操服が壊れた家の下からのぞいていた。そこにあった生活そのものが地震で押しつぶされ、そのまま雨ざらしに放置されていた。どんなにリアルな話を聞くよりも、そこに現実感があった。 それから17年がたち、毎年正月に訪れるかつての被災地には、もう震災の面影はない。だから東日本の被災地も十年たてば・・・と願うのだけれど、広範囲にわたる海辺の被災地には、神戸周辺の都会とは違う復興の難しさがあるのだろう。何しろ海を仕事場にしていた人たちの、船から、生簀から、納屋から、網から、冷蔵庫から、岸壁に至るまですべてが破壊されつくされてしまったのだから。 地震と津波で亡くなった人は永遠に戻ってこないし、破壊された街や設備が復興するにも年の単位の時間がかかる。津波がきっかけで大事故になった原発から放出された放射能の一部は、その能力が半減するまで30年かかる。炉心溶融を起こした原発は、廃炉にして数百年も管理し続けなくてはならない。失ったものは大きくて、これから付き合い続けなければならない負の遺産の時間の単位は気が遠くなるほど長いのに、原発をどうするかという議論も合意もないままに、原発を再稼働させようとする手続きが、事故から一年もたたないうちにどんどん進んでいる。 津波の被災地は人が協力し合わないと復興が進まないから、被災者の団結は強まったそうだ。あなたも私も、あの人もその人も同じ津波の被害者なのだから。でも、放射能が降り注ぐ街では、とてもここに住んでいられないと感じて避難する人と、なぜそんなに恐れるのかと街を離れる人を非難する人と、逃げたくても逃げられない人とが、水と油のように混ざり合って暮らすことになった。同じ震災の被災でありながら、この差はこれからの街の行方に大きな差を生むだろう。 放射能は目に見えないからだけでなく、放出した主体は誰なのか、その責任はだれが負うのか、その影響は人間の身体にどんな結果を生むのか、その結果と因果関係をだれがどう認めるのかなど、不確実で不審で不安なことばかりだ。その人の主観によってどうにでも見ることができる不定なリスクが、誰にも等しく身の回りの空気中に飛び回っている。そんな被災地が復興するためには、どんなことが必要なのだろうか。2011/1/24 ![]() ![]() ![]() ![]() え、私の写真!? いややわ、やめといてください、こんなしわくちゃやから恥ずかしいわ。え、この絵ハガキ持って? はい、ほんなら・・・。カシャッ! ![]()
12月に亡くなった北朝鮮の「将軍さま」のカラダは、エンバーミング(防腐処理)されて永久に保存されるそうだ。彼の偉大なるパパもそうされて眠っているので、同じ場所に親子で並んで永遠に眠り続けるらしい。
ふたりの元「将軍さま」以外には、ロシアにレーニンが、中国には毛沢東が、ベトナムにはホー・チ・ミンのカラダが永久保存されているそうだけれど、いずれも社会主義国家なのだ。人民のための国家は、偉大なる指導者を永遠に崇め奉るのが好きなのだ。人民を解放するのが社会主義なのかと思ったら、偉大なる指導者を頂点とした階層社会なのだな。おっと、田舎の八百屋のおじさんはこんな話に深入りしてはいけないな。 ほぼ100%が火葬される日本ではエンバーミングはめったに必要とされないけれど、土葬が多い欧米では当たり前の処置としてされてきたらしい。仏教国のはしくれである日本と、よみがえったキリストを救い主とする欧米との宗教の問題も作用している。そういえば、最近は日本でも映画の影響でエンバーミングが注目を浴びたことがあった。 エンバーミングは亡くなった人にすることだけれど、生きている人がいつまでも若くあろうとする努力をアンチエイジングという。このふたつを一緒に並べると大変不興を買うことは分かっているのだけれど、ある一線を超えるとこのふたつには境目がなくなる。不老不死の肉体はありえないが、不老の外見はいくらでも作ることができる。それを、本人が、感覚的に、受け入れることができれば。 肉体は二十歳前後から早くも老化が始まるものらしい。生育を終えた途端に老け始めるわけだ。それでもまだ三十歳代の老化はわずかなことだし、精神の成長が肉体の老化を補ってくれるから、老化という言葉は実感できないが、四十歳代になるとため息とともに実感が伴ってくる。そして五十歳代になると、肉体の老いが精神の成長を追い越して先に行ってしまう。この時にやはりそれを受け入れることができるかどうかが、その後の老い方を決めるポイントになるのではないだろうか。 七十歳なのに五十歳代に見られることが、さも尊いことであるかのようなアンチエイジングよりも、七十歳なら七十歳らしくみられる老い方のほうが美しい。人間には年齢にふさわしい外見と物腰というものがあるもので、それを身につけるためには外を繕うのではなく、中を充実させることなのだ。肉体は老いていっても、精神はさらに成長を続け、知性には磨きがかかる。それが老いを感じさせない良い老い方だ。 五十歳をとうに超えてしまい、下り坂の上から坂の下を見下ろす年代になって、坂の下にたむろする人たちがよく見えるようになってきた。これまではいつも脇道や獣道ばかりを選んで歩いてきたけれど、これからの下り坂にはそんな怪しい道は残されていない。登るときはよく考えずにがむしゃらに登ってしまったから、下る時は気をつけないと足を挫くことになりかねない。坂の下にいる人たちの中で、良い下り方をしたなと思える人にひとつの共通点があった。それは本をよく読んでいる、ということだった。これはよく見習っておこう。本は誰にもよく効くアンチエイジングなのだ。2012/1/17
ふだんは週7日間店に出て、5月連休と夏の休みはどこかに出かけてしまうので、正月の元旦は一年で唯一の、朝から晩まで家で過ごす日である。
滅多にない一日だから、いつも寄生虫の・・・じゃなかった帰省中のムスコやムスメたちといっしょにアホな写真を撮りまくる。(ワープロの変換ってジョークがうまいね) 今年はカミさんが「足の長さ比べをしよう」と挑んできた。身長が10cmも違うのだから負けるわけがねぇだろうが。この際自慢の足の長さを見せてやろうと、おとっつぁんは受けて立ったのだったが・・・。 ![]() 悔しいことにテキは笑っておるぞ。腰に手まで当てて余裕しゃくしゃくだぞ。それにくらべておとっつぁんは、哀れ床に崩れ落ちてムスメたちに介抱され、しばらく立ち上がれなかった。
みなさま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
この十年余り、大晦日は午後3時で閉店させて頂いてきました。大晦日は午後になると車の通りもめっきりと減り、片付けを終えて暗くなってから店を出ると、もうすっかり深夜のように静かだったものでした。ところが、正月でも営業する大型店が年々増えた影響か、この数年は大晦日の午後とはいえ普段通りに車が走り、午後3時で店を閉めるのをためらうようになってきてしまいました。事実、昨年の大晦日は店を閉めた後で問い合わせの電話をいただきましたし、年が明けてから「通りがかったらもう閉まっていた」というお話も伺いました。世の中は年々変わっていくものなのですが、一年で唯一世間のスイッチがOFFになる日もなくなりつつあります。 暮れに食器洗い機について書いたところ、珍しくたくさんの反応を頂きました。この寒いのにお湯が出ないなんて奥さんがかわいそう、男の人が食器を洗うなんてみっともない、食器洗い機はキッチンの大進化だ、などなど。みなさんそれぞれに生活の力点の置き方が違うので、いろんな感じ方をなさるのは当然のことです。お湯が出ないのはひとえにビンボーのせいで、誰かの甲斐性の無さゆえであることは間違いありませんが・・・。 実は、その食器洗い機について口幅ったいがために書ききれなかったことがあります。それは、食器洗い機がキッチンの標準装備になると、やがて食器自体が変わっていかざるを得なくなり、電子レンジと食器洗い機に対応した平板な食器ばかりが食卓の主流になるだろうということです。手で行ってきた作業を機械でこなすことになると、手で感じてきた感覚が失われます。たかが食器を洗うことでも、目で見つめ、指で感じてきた感性は、器という道具への意識を育んできたはずです。それが失われるのは惜しいことだ、と。 人間はある時期まで機械を使うことで進歩してきました。最近の機械も生活の質という点で進歩をつづけていますが、一方で人間の能力や意識を退化させることにもなってきたのです。それを「昔は何でも手でやったもんだ」とこだわっていれば回顧主義でしかありませんが、機械と手を必要に応じてうまく使いわけることができれば失うもののない進歩になります。そうしなければただの退化ではないか。 どんなに進化した機械ができても、その機械の存在のために人間の能力が退化したり、果ては人間の存在が脅かされたりするのは馬鹿げたことです。そのことは、かなり昔から科学や技術の進歩の滑稽な結末として映画や文章で表現されてきましたが、とうとう昨年はここからわずか250kmの地点で現実と化してしまいました。困ったことです。でも、よく考えてみれば、当然の結末でもあるのです。 人間の考えた科学技術は素晴らしいものなのですが、あくまでも人間の世界での想定でしかありません。しかも、私たちはこの地球46億年の歴史の中のほんの一瞬しか知らない。この信州を取り囲む山々が、数百万年の時間をかけてせり上がったという時間の長さで考えれば、マグニチュード9の地震などこの周辺では日常茶飯事のできごとなのです。とんでもないことを言っているように聞こえるかもしれませんが、現実に私たちはそんな地震を含めた地殻変動を繰り返して、海から3000mもせり上がった山のそばで暮らしているのです。 この数十年で進化した情報通信や映像記録などは、素晴らしいものだと感心します。人間の知恵はやっぱりすごい。でも、この地球は私たちが思っているよりも凶暴だし、人間の持っている秤や物差しはそれに対してあまりに小さすぎます。原子力という自然界にはない物理現象を作りだして、その熱を利用するという知恵を現実化させる前に、なぜそのことに気がつかなかったのか。いや、これだけの知恵を弄するものが気がつかないわけがなく、実はそのリスクは折り込み済みだったのです。科学を深く知る人ほど、科学が万能ではないことも知っています。だから、最大限の想定を超える災害があった場合は、もう「仕方がない」となるらしい。 科学について専門家ほど深くは知らず、恩恵を享受する一方だった私たち市民は、その「仕方がない」の結果も否応なく引き受けさせられることになりました。大変不本意ですが、この島で生きていく以上は、身の回りの放射性物質とうまく折り合いをつけていくしかなさそうです。そのためには何が必要なのか、よく考える必要に迫られています。答えは簡単に見つからないでしょう。しかも答えは幾通りもあって人によって違うでしょう。でも、自分で考えなければ答えは永遠に得られないでしょう。2012/1/10 ![]() さて、この正月も例年通りに2日から関西で過ごし、5日の夜に帰って6日の早朝より仕事始めと、相も変わらぬせっかちな日取りで一年が始まりました。その関西でのうろつき報告は、後日ゆっくりとさせていただきますが、冒頭の絵の橋を渡って島へ、雪をかき分け都の奥へ・・・。 今年もどうぞよろしくお付き合いくださいませ。
いろいろあった今年が終わる。いつもなら、そのいろいろがいいことも悪いこともいろいろなのだけれど、今年の場合はどう振り返っても思い出すのは悪いことばかり。そんな悪いことを思い出してばかりいては何も新たなことは生み出せないので、一年の終わりは今年の新たな出会いを振り返って来年の糧にしよう。
高遠町三義の豆腐屋「まめや」を訪ねたのは、ちょうど高遠の桜が見ごろを迎えた4月中旬だった。数年間から高遠に縁ができて、おいしい豆腐屋があることは聞いていた。地元の豆腐を扱いたくて、そんな豆腐屋をずいぶん長い間探していたのだが、ようやく良い豆腐屋と出会うことができた。その作り方は、煮炊きの熱源はすべて薪を焚くという他にはない無謀さ。しかも作り手はまだ30代前半という若さ。豆腐の味は食べる前からわかっていたようなもので、それだけの熱意をかけて作る豆腐が旨くないわけがない。今やすっかり豆腐の主役の座を占めて、鍋の季節を迎えてさらに評価が上がりつつある。 暮れになって、その「まめや」のスタッフとして働いている名越さんが店を訪れてくれて、豆をわれらが店でも扱うことになった。名越さんは群馬などで農業を研修してから、高遠に入植してまだ2年目の若い女性。豆を中心に作っていきたいという。でも、この高遠などの信州の山間地は寒いので年1作しかできないし、いずこもシカの天国と化しているから、決して新規に就農するには条件の良い農地とは言いかねる。それでも豆という作物は、面積も大規模に必要としないし収穫や出荷が重労働ではないぶん、選別と袋詰めに細かい神経と感覚が必要とされるから、女性が目指す農業としてはいい作物なのだ。こんな就農の仕方がうまくいくようになれば、農業はひたすら重労働という固定観念を変えることができるかもしれない。 「こぶたちゃんのしあわせ」という、今までのわれらが店にはないセンスのネーミングの雑貨が登場したのは6月のこと。ある日曜日の午後、お父さんらしき人と現れた若い女性が会計を済ませた後で、「実は私、こんなものを作っているんです。よかったら見てください」と言ってバッグから取りだしたのが、オーガニックコットンの和布で作ったふきんとベビーミトンだった。和布は古くから「びわこ」というふきんが油汚れを石鹸もなしによく落とすので扱っていたし、オーガニックコットンのタオルや靴下は「メイドインアース」が創業のころから扱っていた。オーガニックコットンの和布を自分で仕入れ、草木染めした糸で刺しゅうをしてふきんやミトンに仕上げたものは、ひと眼見て「おもしろい」と瞬間的に頭がひらめいてしまったので、その場で扱うことを決めた。「ホントですか、ホントですか・・・?」と「こぶたちゃん」は繰り返し聞くので、この人は大丈夫かな・・・と不安にもなったが、どうやらあちこちの店に提案をして歩いたのだが、店に置くことになったのはわれらの店が初めてだったらしい。見た目に派手さがない実用的な雑貨だけに、ファンシー雑貨の店では売りにくいだろう。そのぶんわれらが店は実用性のあるものばかりのうえに、オーガニックというテーマが乗っかっているのだからぴったりだったのだ。 12月になってPOCOのベーグルが店頭に並ぶようになった。POCOの百瀬さんからはかつて業務用の菜種油の問い合わせをもらい、原村でベーグルと焼き菓子を作っていることを知っていたが、実際にモノをもらうようになるまでに2年もかかってしまった。その間にPOCOのベーグルはおいしい、と蓼科や八ヶ岳の麓では人気になっていたらしい。百瀬さんもまだ若い女性。まるで空の中に浮かんでいるような、八ヶ岳のすそ野の広大な畑の中にある小さな工房でベーグルを焼き、夏場は花を作る家の畑を手伝うという半農半ベーグルの暮らし。最初の問い合わせの時に、菜種油を香りづけに使いたいというところで、この人はいいものを作りそうだという予感がしたのだ。 こうしてひとりひとりとの出会いをつぶさに振り返ってみると、今年はじつに実り多い豊かな年だったのだ。世の中には行き詰った雰囲気と困った物質が漂っているけれど、こうした新たな人との出会いがあったおかげで、今年も暮れまでたどり着くことができた。それを買う側で支えてくださった皆様には、心から感謝します。今年も一年お付き合い下さり、誠にありがとうございました。 2011/12/27 ![]() 空の季節は巡り巡ってやってくるものなのだが、世の中の季節は実に不規則的に巡って、いまや時代も冬である。この20年ばかり、夏はもちろん春という実感すらなく、振り返ってあの頃が春の兆しだったのか、とわずかな指標のぶれに教えられることばかり。その春の蕾さえ、まるで晩霜に襲われたように凍りついて、花を咲かせる前にみんな地に落ちてしまった。 自動車産業は日本経済の屋台骨だからと、国が税金で数千億円のこませを撒いて魚を集めてくれるそうだ。みんな買ってくれないし、輸出したって円高で儲からないんだから・・・と嘘泣きの影でペロッと舌を出しているのに。 自動車産業が大樹ならば、街の八百屋は道端の雑草。歩く人に踏まれ、伸びれば草刈り機で刈られ、冬はじっと霜に耐える。地面に深く根を張り、最小限の葉を広げ、生きるために最低限度のエネルギーしか消費せず、毎朝の霜に耐え、雪に埋もれ、物みな凍る厳しい冬をじっと乗り越えて、春を待つ。春を待つ。街かどの雑草は、ひたすらに春を待つ。
師走に入って寒さが厳しくなり、蛇口から出る水道の水が一段と冷たくなった。我が家の台所の水道は、ワケあって真冬でも水しか出ない。正確には5分ほど待てばチョロチョロとぬるいお湯が出ないこともないのだけれど、そんなものは短気でせっかちなわが家族は誰も使わない。食事が終わったあとは、食器を洗い終わった娘たちが冷えた手を他人の素肌で温めようとするので、悲鳴や威嚇の唸り声が家じゅうに響き渡る。
小学生3人を抱える妻の妹が家を新築したときに、台所に食器洗い機があるのを見て、これからの家庭はこれが標準装備になるのだろうな、と感じた。今どきの一般の家庭では総じて動物性油脂たっぷりの食事が多いのだろうから、食べ終わったあとの食器を洗うのはひと仕事だ。動物性の油がベットリ付いた皿は、お湯と石鹸がなければきれいにはならないし、洗う順番にシンクに入れないとやたら油汚れを広げるだけになってしまう。 そんな食器を機械に入れておくだけで、テレビを見ている間にみんなきれいに洗って乾かしてくれる。これが文明の利器というものなのだ、という朗らかな笑い声が都会の明るい家庭から聞こえてくるような気がするが、田舎の畑の中でネズミが同居する家のおっさんは、それは文明の危機ではないか、と冷たい水で飯椀を洗いながら思うのである。 我が家では、自分で使った食器は自分で洗うことを徹底してきた。男でも女でも小さくてもなんでも、食べたあと始末は必ず自分でつけるようにしてきた。おかずが盛ってあった皿は最後に食べた人が洗うことになるのだが、それが嫌で最後の一片だけがいつまでも皿に残っていることもあった。それでも最低限、自分の食器だけは洗うことが食べた者の義務として課された。子どもたちも年齢が上がると、飯椀と汁椀は木曽の漆器を与えた。決して高価なものではなかったけれど、漆器はぞんざいに扱うと漆が欠けたり剥げたりする。それは食器の扱い方を心得る良いきっかけになった。 そもそも食器洗い機などというものがよく売れるようになる背景には、食べた後の洗いものは主婦がやるもの、という固定観念があるのではないか。食べるのはそれぞれなのだから、片付けるのもそれぞれとすればこんな機械はいらないし、子供たちが食べることや器の扱い方を考えるきっかけにもなる。食器という誰にも必要な道具を洗ってきれいに保つことは、食べることと直結した人間の大事な生きるための作法なのだから、まるでやっつけ仕事のように機械に洗わせてしまうのは畏れ多いのだ。 などと真面目くさって書いてしまうと、まるで年寄りの回顧主義みたいだ。最近は書いていることがジジ臭くなってきたような気がする。これは下の世代との考え方にギャップができてきたからに他ならない。食えないジジイにならないように気をつけなくては。ううう、水が冷たい・・・。 2011/12/20
11月と12月生まれの娘たちの誕プレに、ふだん娘たちだけでは入らないような店に、食事に連れて行ってあげることにした。娘たちの希望がイタリアンだったので、諏訪の上社近くのトラットリア「チャオ」へ。この店は住宅街の裏通りにありながら、20年も前から評判を聞いていた隠れた名店。子どもたちが小さい頃はとても入れなかったが、出かけても誰も付いてこなくなった数年前から、ようやく足を運べるようになった。
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 娘たちは「おいしい・・・」と言いながらあまり食が進まない。どうやら起きたのが遅くてまだ十分に朝食が消化されていないらしい。坊主頭のおとっつぁんはおバカな娘たちのパスタをかっさらっては平らげ、見事にスケソウダラのようになって店を辞したのであった。
CAMBIOには、毎日のように外国人のお客さんが来店する。英語を母語とする人が多いのだけれど、われらが拙い英語よりも日本語が上手な方ばかりなので、ほとんど普通のお客さんと同じような話し方で会話に困ることはない。彼らの多くは学校で子供たちに英語を教えているから、もともと言葉に造詣が深い上、自分でも言葉を習得しようという意欲のある人が多い。中には長く滞在していながら全く日本語を解さない人もいるけれど、それはまたそれで英会話教室の生徒にはエキゾチックな存在としてあこがれの対象になるらしい。
そんな人たちの中で、アメリカのテキサス州から来たPさんは岡谷に来て2年ほどだが、このところ日本語の上達が目覚ましい。最近は会話だけでなく、値札や商品名もずいぶん読めるようになってきた。一年目は学校の補助教員の空きがなくて英会話学校で教えていたが、「やっぱり子供がいいですねー」と言い続けていた。今年度は原発事故の影響で空きが出て、めでたく小学校の補助教員となり、2校を掛け持ちで回っている。 Pさんと話していて感じることは、ただ補助教員として異国で暮らすだけでなく、日本語を自分の中に取り込もうとする意欲が強いことだ。ある日、「今日はとても緊張してます」と言うのでなぜかと思ったら「明日日本語の試験を受けます」。外国人向けの「日本語能力試験」というものがあるそうで、Pさんは2級を受けると言う。英検でも漢検でも2級と言えば上級の入り口だから、それなりに難しいはずだ。筆記とヒアリングがあるそうなので、失礼なことと思いながらも「漢字は読める?」と尋ねると「僕は漢字大好きです。もうたくさんの漢字を覚えました」と言う。 わずか26文字のアルファベットとは違い、常用漢字だけで2136もの種類がある字を、日本語を母語としない人が覚えるのは生易しいことではない。でも、漢字にはある一定の法則があるから、ヘンとツクリの組み合わせで意味や読み方が分かる場合が多い。そんな話をすると「そう、パーツの意味を覚えて、その組み合わせで字ができるのを覚えたら、ずいぶんと解るようになりました」というから、これからもっと漢字を覚えるのも苦にならないだろう。 漢字が中国から伝わってから約1500年の間に、少しずつ漢字は変化してきた。今も一部に旧字体が残っているように、字は手で書かれることでだんだん簡略化され進化してきた。その進化のしかたが中国と日本では違っているので、長女の会社の仲の良い同僚は中国の人は、日本の漢字で読めない字があるそうだ。大元は同じ字でも、違う言語の中で揉まれて磨かれていくうちに、違う進化の仕方をしてしまったのだ。これもアルファベットのような表音文字にはない、人間が代々使い続けてきた道具のような字の面白さだ。 日本語はさらに漢字から派生した平仮名や片仮名と、最近はアルファベットも交えて文章を作るのだから、外国の人が学ぶには極めて難しい言葉なのではないだろうか。そう思う一方でいつも当たり前に浸かっていながら、日本語はこんな文字も多様で文法も独特な面白い言葉なのだ、と改めて敬意を表したくなってしまう。 英語圏の人たちは、他国の言語も自在に使いこなす人が多い。ちなみにPさんにいくつの言葉を使えるか尋ねると、「スペイン語とフランス語は英語と同じように話せます。中国語と韓国語はちょっとだけ、ベトナム語も少し。あと日本語だいぶ分かるようになってきましたね」 これは言葉を学ぶ素質や必要性以前に、昔から海を渡って未知の世界を知ろうとしてきた民族の遺伝子がそうさせているのだ。きっと。 2011/12/13
今週もまた行き先が決まらないまま走りだした。岡谷の道路情報盤によれば、和田峠の旧道は8t車以上が通行止めということだったので、乗用車は通れるものと思って登って行ったのだが、旧道の入り口はがっちりとバリケードが築かれていた。
600円払ってトンネルを抜け、とりあえず旧和田村の旧道を下って行った。和田宿の宿場街を通り、緩やかな下り坂を下って行くと、このまま中山道を車で辿って行ってみようか、と思いついた。 その流れに身を任せて長久保宿、笠取峠を越えて芦田宿まではかつて辿ったことがあったが、芦田から茂田井の間は通ったことがなかった。旧国道から細い旧街道に入り、茂田井宿に来ると目を瞠った。 ![]() ![]() このお屋敷は重文に指定された造り酒屋で、地酒では名高い「御園竹」の蔵元。杉玉が下がっているが、まだ枯れたままだから新酒は搾るに至っていないということか。 ![]() ![]() ![]()
毎年この季節になると、今年の十大ニュースは何だ、と新聞紙上で始まるものなのだけれど、今年はもう一位が決まっているのであまり話題にはならない。平穏な年なら、十大ニュースに限らず一年のベストなんとかは、年の後半のものが優位なのだそうだけれど、今年は3月11日以上にインパクトの強いことがあるわけがないし、これからあっても困る。
先週、図書館で借りてきた本の中に、7年前に起きた新潟の中越地震を経験した人が、その体験と地震に対する備えについて書いたものがあった。その本で繰り返し著者が訴えていたのは、とにかく人間はどんなひどい災害にあっても時間が経つと必ず「忘れる」ということだった。つらい体験を忘れるということは、災害のトラウマから立ち直るためでもあるのだが、経験を生かして次に備えることまで忘れてしまうことも多いそうだ。 震度7という揺れは、震度4とか5ぐらいまでの揺れとは全く異質のものらしい。言葉でいえば「ユラユラ」とか「グラグラ」なんてものではなく「ドッカーン」と天地がひっくり返るのだそうだ。家具の転倒防止器などは全く役に立たず、400Lの大型冷蔵庫が部屋の端から端まで空を飛び、飾ってある器や額などが凶器となって人を襲うという世界。だから、いくら備えをしておいても家の中がめちゃくちゃになってしまえば、その備えが役に立たなくなってしまう。 たとえば、懐中電灯を備えておいても、ただ置いておくだけでは地震の揺れでどこかに飛んで行ってしまうから、懐中電灯は壁にしっかり固定しておく。しかも電池を入れ替え忘れていざという時に使えない、なんてことがないように手回しで発電するタイプが役に立つそうだ。家の中ではガラスや陶器が割れて床に散らばるから、スリッパがないと歩けなくなる。だから、寝床のそばにスリッパを備えておくのも大事な備え。逃げ道を塞がれないように、扉のそばに戸棚を置かない。などは忘れないうちにすぐにやっておこう。 著者は新潟の長岡市で被災したそうだが、これが東京などの大都会であったらもっと深刻な事態がたくさん起きるだろうと警告している。たとえ家やマンションが壊れずにいても、電気、水道、ガスなどのライフラインが復旧するまでには相当な時間がかかり、その間の生活にかなりの混乱が起きるからだ。何に一番困るかといえばやはり水なのだ。とくに高層マンションではトイレに困る。トイレを流すための水を下から運ぶと言っても、バケツ一杯の水を10階まで運ぶのは大変な労力だし、バケツ一杯ではせいぜい2回しか流せない。それに水道が止まっているときには飲むための水を確保するのが精一杯だから、トイレのためにそんなにたくさんの水は使えない。このトイレの始末をどうするかは都会で被災した場合、最も脆弱な部分なのだ。 実はこの災害時のトイレの問題は、私たち一家が信州にやってくるときに、都会生活に見切りをつけた理由を他人に説明するためによく使った想定だった。電気が止まれば水が出なくなり、水が出なくなればトイレも流せなくなる。そんな人間が生活する上で最も最低限のことが、何もないことを条件とした仮想の上に成り立っているような場所に、これ以上長く住み続けたくない。一応飲むことができる水が近くを流れ、穴さえ掘れば用を足すことができるところに住み、しかも食べ物にさえ不自由しなければ、何があっても生き続けることはできる。それは住む場所を考えるときに、何よりも大事な条件だと考えたのだ。 この著者がもうひとつ繰り返して喚起する注意は、災害時に行政の支援はあてにならないということ。どう考えたって、住民全員の生活物資を十分に備蓄している行政などありえないのだから、至極当たり前のことだ。大地震という広域が破壊される災害時は、誰もがみな被災者になってしまうのだ。避難所や支援物資を当てにするのではなくて、自分で身の回りの備えをしておかないとね。くれぐれも忘れないうちに。2011/12/6
どこへ行くとも何も決めずに店を出た。とりあえず松本方面に向かって、どこか山沿いの村でも行ってみようと思った。短時間ではあっても、この月曜の午後は旅なのである。だから、ふらりふらりと走りながら現れる風景や村のたたずまいに、へえ~っと感心したり、なんだこれは?と首をひねったり、う~んと唸りながら推測したりする。そんなひとときを得るには、知らない道、まだ見ぬ地を目指せばいい。実に簡単なことである。
車は松本の市街を通り抜けて、旧四賀村にやってきた。さらに国道を進み、青木村に入る手前で左に下りて行った。ここは旧本城村、今は筑北村という。下っていく道の向こうに、雪をかぶった後立山が見える。大屋根をトタンで囲った家が現れ、里に出た。大ケヤキの案内板があったので、車を降りて見に行った。 ![]() さらに道を下っていくと、篠ノ井線の踏切に出た。見たことがある風景。ここは昨年の秋に来た青柳宿の近くだ。石積みの水路がある旧青柳宿を通り、大きな石を穿った切通しを抜けると麻績村に入った。 まだ少し時間があるので、麻績村の中心を通り抜けて上田に向かうと、「修那羅峠の石仏群」という案内板が目に入った。修那羅峠という名前にココロが惹かれ、そこに居並ぶ石仏を見たくなった。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 居並ぶ石仏がどれも親しみを感じる表情をしている。村の人々が日々の生活の中に見たカミやホトケが、カタチになって並んでいる。権力者が建てた大文字の石像ではなくて、庶民が寄進した小文字の石仏たち。糸の切れた凧のような数時間の旅は、峠の枯葉の中に佇む小さな仏さんにたどり着いた。
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