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我が家のバスタオルは個人別に色分けしてあって、ワタシは黄色、カミさんは赤、娘たちもそれぞれ紫やピンクで、絶対に間違えることがないようにしてなっております。ワタシ思うに、これはオヤジ臭いタオルを識別するための、女どもの自衛策なのだな。キミタチ、これはオヤジ差別だぞ。
オヤジの嫌なところと言われるひとつに、飲食店のおしぼりで油ギッシュな顔をゴシゴシと拭く、という場面があります。うん、確かに傍で見ていると、いかにも臭そうなおしぼりが一丁上がりなわけで、ウエイトレスが片付けるときに端っこを指でつまむ気持ちもわからないことはない。 でもね、この体臭ってものは他人の匂いだから臭いと思うわけで、自分の匂いだとちっとも臭いと思わないところが不思議なのだな。ワタシは夏場の汗をかく時期に、店では専用の顔ふきタオルを使うようにしているんだけれど、これが臭くなるんだな、とっても。でもそれがワタシにとってはちっとも嫌な臭さではないんだな。思わず顔をうずめて深呼吸してしまうほど。(おまえは変態か!?) 家に帰ると、枕にしっかりと匂いが沁み込んでいます。くたびれ果てて、さあ眠りに就こうという時にこの匂いを嗅ぐと安らぎさえ感じますね。ああ、自分のネグラに帰ってきた・・・と。同じ色形のカミさんの枕が置いてあったって、すぐにわかっちゃう。自分の匂いは、鼻を付ければ迷うことなく嗅ぎ分けられる。息子たちが帰ってきてワタシのベッドで昼寝したりすると、すぐわかる。体癖が同じ息子の匂いはよく似ているのだけれど、微妙な違いが鼻をくすぐるのでわかってしまうのだな。 そんなところからもワタシ思うに、このオヤジの匂いというのは一種のマーキングなのではないか、と。ほら、犬が電柱にむかってカパッと足を上げたり、猫が通りすがりにシッポを小刻みに震わしたりして、匂いで自分のテリトリーをマーキングするのと同じなのではないかいな、と。 しまった、ちょっと例えが悪かったかな。
三伏峠のお花畑からは、明日登る塩見岳が夕日に輝いているのが見えた。きれいな山だ、とSは思った。そのお花畑をさらに登ると、急に地面が途切れてガレ場になり、釜沢の方角に崩れている。お花畑はいい天気なのに、ガレ場の谷にはガスが沸き、この下は地獄であるかのように見えた。
その日は、8月15日だった。その日が何の日であるかぐらいは、高校生たちでも当然知っていた。 そのガレ場の縁で、高校生たちはおっちゃんに整列をさせられた。一度並んだあとで、おっちゃんは方角を確かめ、もうちょっと右だ、いや左だ、と修正した。Sは、いつもとおっちゃんの顔付きが、違うことに気がついた。 「貴様ら、きょうは何の日か知ってるか!」おっちゃんの演説が始まった。「27年前の今日は、天皇陛下が御聖断を下された日だ。そのありがたい御聖断のおかげで、我々はこうして生きていられるのだ!」呆気にとられた高校生たちは、声もない。「貴様らが頭を向けている先には、キュージョーがある」。キュージョーは球場ではなく宮城であることなど知るはずもないSは、「なんで後楽園球場と天皇陛下が関係あるの?」、と思ったがとても口にはできなかった。 「これからキュージョーに向かって万歳をする。腹に力を込め、大きな声で唱和しろ!」酔っ払いのオヤジから、バリバリの右翼に変身した食堂のおっちゃんは、一通りの演説を終えると高校生たちの後ろに立って、嬉しそうにそう言った。Sは恥ずかしくなって、回りで誰かが見ていたらどうしよう、とお花畑を見やった。幸か不幸か誰も居ない。「気をつけー!」後ろからおっちゃんが叫ぶ。「天皇陛下、バンザーイ!!!」、「…バンザ…イ」、「こらぁ、声が小さーい!!もっと大きな声を出せぇ!!バンザーイ!!!」、「…バンザーイ…」、「もう一度!バンザーーーイ!!!」……。おっちゃんのダミ声が、夕暮れの三伏峠に響き渡った。 翌朝、Sたちは雲ひとつない天気に恵まれた。1年に一度あるかどうかという最高の天気だ、と小屋の人が言っているのを聞いて、Sは嬉しくなった。塩見岳に登ると、回りの山という山が、すべて見渡せた。塩見岳という名の通り海も見えるのだ、とSはおっちゃんから聞かされていたが、それは叶わなかった。 三伏峠から塩見岳を往復したSたち一行は、行きのルートはやめ、鹿塩に下山することにした。三伏峠を昼過ぎに出た4人が、塩川を経て鹿塩に着いた時はすでに夜になっていた。ここから釜沢までは、ぐるりと大鹿村を半周しなければならない。Sは疲れていたが、最高の日に塩見岳に登れたことが嬉しかった。歩けといわれれば、どこまででも歩いていけそうな気がした。 一行はそのまま歩き続け、大河原を経て釜沢に着いたのは、夜中の2時になっていた。 ★ ★ ★ ★ 釜沢での夏休みは、その後の年も続いた。大学生になったSたちは、小渋川の奥にある村営の小屋の番を任されるようにもなった。 しかし、Sたちより下の年代の山岳部員たちは、あまり釜沢には近寄らなかった。Sたちが社会人になるころには、おっちゃんも体を壊し、釜沢まで来ることも無くなった。Sたちの釜沢の夏休みも、終わった。 そして釜沢の家は、誰も使わないまま、荒れ果てた。 Sは、初めて訪れてから20年が経とうというある夏の日、釜沢の家にやってきた。朽ち果てているのではないか、と心配していた家は、まだ健在だった。隣のクボタさんの家は、別荘に成り代わり、西隣の家にはミュージシャンが移住していた。Sたちが夏を過ごした数年後から、空き家をヒッピーくずれの人たちが借りて住むようになったと聞いていたが、すでに釜沢の1/3はそんな新住民だった。部落の中に網の目のように張り巡らされていた細い道の代わりに、立派な車道が斜面をくねるように貫いていた。しかし、家からナカムラさんの家へ登っていく道には、いまだにコンクリートの踏み板があって、歩くとカタカタと鳴る音が懐かしかった。 釜沢の家の中は、20年の時間が止まったままだった。20年前のカレンダーには、Sを含めた名前と予定が書き込まれたまま。床の間におっちゃんが張った、大きな日の丸もそのままだった。破れた障子を開け、家の中から外の山々を見ると、Sは本当に20年前に時間が戻ったような気がした。襖の向こうから髪の長いHが現れ、くわえタバコで高校生のSにイチャモンを付けてきそうな気がした。 それは、悲しいほどに、時間が止まったままの状態だった。 庭に出ると、小渋川の瀬音が上昇気流に乗って聞えてくる。赤石岳の稜線も変らない。ただ、クボタさんの家にあった杉の木が伸びて、赤石岳の稜線の一部を遮るようになった。Sが赤い布をもって登った山も、青々と木が茂っている。20年前に植えた木が大きく育っているのだ。 どこも時間が止まったままのように見えた釜沢で、樹の成長だけが時間の進行を証明していた。
大鹿村は、南アルプス中部の登山口である。大鹿村には3000mを越える山が、塩見岳・荒川岳・赤石岳の3座あり、それぞれを繋ぐ稜線が静岡県との境になっている。
釜沢まで登ってくるボンネットバスも、赤石岳への登山口になっている「湯折」行きなのだが、そのルートは小渋川を何度も渡渉しなくてはならないために不人気で、バスはいつもガラガラだった。 主に利用されていたのは、釜沢より北側の鹿塩から塩川沿いに三伏峠に登るルートで、南アルプスの代表的なアプローチになっていた。 釜沢で炭焼きをしていたSたち高校生は、焼き上がった炭が釜から取り出せるように冷えるまでの間、塩見岳に登ることにした。釜沢から塩見岳には、幽霊伝説のある御所平から、三伏峠を経て登ることにした。5万分の1の地図には点線でルートが示されているが、一般的なルートではないので、荒れている可能性があった。 怪我をして夏山合宿に参加できなかったSは、この塩見岳が合宿がわりになることをある程度悟っていた。合宿というのは、上級生が下級生をふるいにかけるハイライトでもあるので、MとHがSをシゴキにかかってくることは容易に想像できた。 出発の朝、Sの77cmの特大キスリングは40kgもの重さに膨れ上がっていた。前日の夜にSが荷造りをした時に比べ、異様に中身が増えている。両ポケットにはいつのまにか大きなキャベツが2個ずつ、本袋にはコーラやビールが何本も、Sが知らないうちに詰め込まれていた。 その重いキスリングを背負ったSと3人は、釜沢の家から歩き出した。林道を御所平まで上り、終点からか細い踏み跡に入る。Sは必死で歩いたが、当然ペースは遅かった。ルートは伐採された斜面に入り、草が生い茂っているために、先頭を行く2年生がしばしば道を見失う。日を遮るものがなく、猛烈に暑い。 カンカン照りの斜面を右往左往しながら登ると、飯場の跡があった。湧き水がホースで引き込んであり、水受けの一斗缶からあふれていた。みんなで荷を下ろし、ひと休みにする。湧き水がおいしい。夏の山では湧き出している水ほど、おいしい飲み物はない。Sはつい飲みすぎそうになって、2年生に叱られた。 三伏峠まではまだ長い。少しペースを上げるために、Sの荷物を分けて軽くすることを、おっちゃんが提案した。Sはその通りだとばかりに、中身が異様に増えていることを訴えた。2年生二人に荷物を分け、Sのキスリングは大分軽くなった。意気揚々と出発しようと立上がった時、Sは一斗缶の水受けの中を見てしまった。そして、あまりのショックにひっくり返りそうになった。水受けの一斗缶の底には、野ネズミが溺死して沈んでいたのだ。 荒れた道にさんざん迷ったあげく、夕方になって三伏峠にたどり着いた。お花畑の近くにテントを張り終えると、早くもビールを飲んでいい気分になったおっちゃんが、高校生たちに峠のガレ場まで行くように命令した。それはいつになく強い調子の「命令」だった。
ナカムラさんは腕を組んだまま「南瓜を盗んだのは、おまえか」、とSに言った。Sはようやくここに呼ばれた意味が分かって、顔から血の気が引いていった。「狭い部落の中だから、畑のどこにどんな物があるかは、誰でも分かっているんだ」ナカムラさんはカラダだけでなく、話し方にも迫力があった。「どうも…、すみません…」Sは蚊の鳴くような声で謝った。Sは自分の体が、まるでネズミのように小さくなってしまったような気がした。
ナカムラさんは一通りの小言を終えると、今度は「うはははは…」と笑い出した。そもそもそんなに本気で怒るほどのことでもなく、ちょっとお灸を据えるつもりだったのに、あっけなくしぼんでしまったSを見るに忍びなくなったのだ。ナカムラさんは、そんなSを座敷に上がらせた。おばさんも今にも泣きそうなSに、桃をむいて出してやった。 Sは桃を見ると、今まで萎れていたのがウソのように、元気になった。もう何日も生の果物を食べていなかったSは、おばさんのむいてくれた桃を貪るように一気に食べた。そして、Sは勝手に南瓜を食べて叱られたはずなのに、すっかり得をした気分でナカムラさんの家を出た。 釜沢の家は、風呂に難があった。五右衛門風呂は錆だらけで、いつもお湯は濁っていた。おまけに、離れになった風呂場の屋根は抜け落ち、湯に浸かりながら月見ができる、といった具合だった。 小渋川のほとりに赤石荘という新しい民宿があって、いくらかを払うと風呂だけでも入れてくれた。しかし、一度ひどく汚れた身なりで風呂に入りに行ったら、「風呂に入ってから来てくれ」とイヤミを言われ、それ以来、赤石荘には行かないことにした。 代わりに高校生達は、小渋川の堰堤でシャワーを浴びることにした。堰堤のシャワーは冷たかったが、かえってそれが気持ちよかった。素っ裸になって、堰堤から落ちてくる水で体を洗った。 ある日高校生たちは、じゃんけんで負けた者が、堰堤の滝壷に飛び込んでみることにした。堰堤の下には大きな穴ができていて、滝壷のように水と泡が逆巻いている。Sは運良く勝ち、髪の長い2年生のHが負けて飛び込むことになった。Hはパンツ1枚で奇声を上げながら、足から滝壷に飛び込んだ。 滝壷は思いのほか深いようで、Hは飛び込んだまま姿が見えなくなった。10秒、20秒、30秒…、Hは沈んだまま現れない。SとMはあせり出した。これは中で滝の渦に巻き込まれているに違いない。このままでは溺れてしまう…、と二人が滝壷を見つめて慌てているその時、渦になった水の中に長い髪の毛がモアモアッと湧き上がってきた。すかさずSが滝壷の縁から手を伸ばし、湧き上がってきた髪の毛を思い切りつかんで引っ張ると、水をたっぷりと飲み込んだHが、必死の形相で浮かび上がってきた。 Sたち高校生は、釜沢の家の隣に住むクボタさんの手ほどきで、炭焼き釜を作っていた。釜沢の部落を鳥倉山に向かって1時間分ほど登った山の中に、樹を切り、斜面を掘り、土をこねて釜をこしらえた。楢や椚などの硬い木を、長さを揃えて切った。チェーンソーなどはないので、一本ずつ鋸で切るのは、大変な作業だった。Sも汗みどろになって木を切った。 毎日、炭焼きの作業が終わると、高校生たちは小渋川に水を浴びに行った。炭焼き釜のある山から川までは、標高差で500m近くもあったが、高校生たちは水を求めて、転がるように川まで走って下りた。 お盆が近くなると、荒川荘もお客で賑うようになった。小渋川を少し溯ったバスの終点にも、小渋の湯という温泉があるのだが、ほとんど営業はしていなかった。だから、この釜沢周辺では赤石荘が、唯一の宿泊施設だった。 その日もSたちが山から下りてくると、お盆で帰省した人や観光客で、赤石荘は賑っていた。いつものように川の堰堤で水浴びをしていると、少し下流の壊れかけた吊り橋を、高校生ぐらいの女の子たちを含む家族が渡っているのが見えた。吊り橋は、所々の板が朽ちて抜け落ちている。そんな危ないところにさしかかると女の子たちから「キャア」という声が上がる。その「キャア」に誘われるように、Sたちもいつのまにか吊り橋の下に来た。下に来たからといって、何があるというわけでもないのだが、薄汚れたハイエナのように吸い寄せられていった。 釜が出来上がると、切った木を釜に立て、土をこねてふたをした。てっぺんには土管の煙突が立っている。釜のふたに隙間ができないように、木のへらで万遍なくペタペタと叩き、釜に火を入れる。一度釜に火を入れると、数日間は寝ずの番をしなくてはならない。常に火を落とさずに薪をくべなくてはならないからだ。 高校生は交代で火の番をした。夜中の山の中は、様々な動物の気配に満ちていて、誰もが一人でおしっこに行くのを躊躇った。Sはフクロウの鳴く声を初めて聞いた。 釜に火を入れてすぐは、白い煙が出た。やがて青いような煙になり、火を入れて3日目には煙突から出る煙が透明に近くなって、炭は焼き上がった。焼き上がってから数日は、釜が熱くて炭は取り出せない。数日間、釜を冷さなくてはならない。それから炭を取り出すことになる。Sたちは釜が冷えるまでの間、塩見岳に登ることにした。
翌日、Sは大きな赤い布を持たされ、再び昨日の山に登らされた。赤い布は言うまでもなく、監視するための目印だった。Sはひたすら登った。飯場の前は走って通り抜けた。ハゲ山に出るととても暑かった。眼下には釜沢の部落が一望できた。南向きの斜面に、へばりつくように家がある。S達の家にはチラチラと光っているものがあった。2年生が鏡で合図を送っているようだ。Sは急に見られていることを意識して、急いで歩いた。
Sは、頂上に着いたら持たされた赤い布を振って、合図をすることになっていた。頂上には何も目印はなかったが、稜線の飛び出したところを頂上と勝手に決めて、赤い布を振った。大きな布を持ち、Sは「ウォー、ワォー」と叫びながら振り回した。「たまたま見ていない時だった」などと言われて、また登らされてはたまらない。Sはこれでもか、これでもか、と大きな赤い布をいつまでも振り続けた。 釜沢の家の3人は、Sがハゲ山に出て以来、双眼鏡で監視し続けた。Mは時々、鏡で合図を送ってSを励ました。頂上を探している時も、ザックを下ろして赤い布を振り始める時も、3人はずっとSのことを見ていた。そして、いつまでもいつまでも赤い布を振り続けるSに、「もういい!もういい!!わかったからもう下りてこい!!!」と腹を抱えて笑い転げていた。 Sや2年生二人の高校生達にとって、この釜沢の家が好都合だったのは、酒もタバコもやり放題だったことだ。持ち主の食堂のおっちゃんは、高校生達がそんなことに手を染めるのは当たり前、と思っているようだった。だから、多少のことであれこれと、高校生のやることを制限することもなかった。何でも、やりたい放題だった。 夜になると、毎晩、おっちゃんの酒盛りが始まった。おっちゃんはジンが好きなようで、安いサントリーのジンが土間にいく箱も積まれていて、これが飲み放題だった。おっちゃんの酒盛りは、酔っ払って寝込むまで続いた。その酒癖は、これがまた最悪だった。 高校生達は、すでに3人とも習慣的喫煙者だったが、酒はそれほど飲まなかった。特に2年生二人は、この夏の合宿の帰りに部員全員で酒を飲んで大問題を起こしたばかりだったので、意識的に酒には手を出さないようにしているようだった。しかし、夏の合宿に行けなかったSだけは、まだ酒の洗礼を受けていなかった。 ある晩、Sはジンを飲んでみることにした。おっちゃんがいつもやっているように、ジンにレモンの絞り汁を入れてサイダーで割った。一口飲むと、強烈なジンの香りでむせそうになった。もう一口飲むと、強いアルコールでまたむせそうになった。半分酔っ払ったおっちゃんが「おう、Sも飲めるじゃないか」とそそのかしたので、Sは調子に乗って1杯目を飲みきった。2杯目は、ジンをコーラで割ってみた。2杯目の途中から、Sはなぜか急に楽しくなってきた。これならお酒なんか何杯でもペロペロと飲めてしまえるような気がしてきた。そして、いつも何かとやり込められている2年生なんか恐くも何ともない、と思えてきた…。 翌朝、Sが目覚めたのは庭の縁台の上だった。Sにはなぜ自分がこんなところで寝ているのか、わからなかった。おっちゃんはその日から、Sだけは酒を禁止にした。理由は「おまえは危ないから…」とだけ言った。 釜沢の家の食事は、高校生が交代で作ることになっていた。山岳部は毎週土曜日に食事を作る練習があったので、だれでも多少は作ることができた。おっちゃんが食事を作ることは一切なかったが、多少失敗しても決して「まずい」などと責めたりすることもなかった。 釜沢には食べ物を売っている店などはないので、次の買い出しまでは家にあるもので賄わなくてはならない。冷蔵庫はあるが、なま物は夏だからそんなに長持ちはしない。肉や魚よりも、野菜が中心の料理が多くなった。肉や魚は缶詰を使った。 ある日、Sが晩御飯のしたくをしていると、台所の窓の近くでMがSに手招きをして言った。「あの南瓜、旨そうだな。おまえ取って来て煮てくれよ」 Sが見ると、北側の窓からすぐの土手に、黒光りするような立派な南瓜が成っていた。Sは言われるままに南瓜を取ってきて、砂糖と醤油で煮て、その晩のおかずになった。 公衆電話のナカムラさんは、釜沢の区長さんでもあった。南瓜を食べた翌日、その区長のナカムラさんの旦那さんから、おっちゃんを通してSにお呼びがかかった。おっちゃんはその事情を知っているようだったが、Sには何も言わず、ナカムラさんの家に行くようにとだけ伝えた。 夜、Sはひとりでナカムラさんの家に行った。Sも何度か電話をかけに行ったので、ナカムラさんの家はよく知っていた。しかし、電話を借りる時はいつもおばさんが出てきたので、Sは旦那さんにはあったことがなかった。おっちゃんの話によると、ナカムラさんは現役の「樵(きこり)」なのだそうだ。Sはなぜその「樵」のナカムラさんにご指名を受けたのか解らないまま、コンクリートの踏み板伝いに、細い道をナカムラさんの家に登っていった。暗闇で踏み板が、Sの一足ごとにカタカタと鳴った。 ナカムラさんの家は、玄関を入ると広い土間になっている。その土間の奥に、いつも使わせてもらっている公衆電話が載っている台がある。「こんばんは」とSが声を掛けると、いつもとは違って旦那さんのナカムラさんが障子を開けて現れた。ナカムラさんは土間より一段高い所から、Sを見下ろすように腕を組んだ。太い腕が分厚い胸をさらに盛り上げた。すごいカラダだ…、とSはナカムラさんを見上げて思った。 ナカムラさんは腕を組んだまま「南瓜を盗んだのは、おまえか」、とSに言った。Sはようやくここに呼ばれた意味が分かって、顔から血の気が引いていった。
どうも最近、よく交差点の近くでオマワリが釣りをしているなあと思っていたら、うちのカミさんが釣られちまったよ。一時停止をしなかったってんで7000円払えとさ。現場はえらく見通しの良いT字路でね、右も左も300mは見通せる畑の中なんだよ。交差点からはるか200mも離れた脇道で、オマワリは隠れて見てたんだってさ。ピタッと止まんなきゃ危ないような場所ならまだしもね、200mも離れた場所から見ていられるような呑気な場所でだよ、止まらなかったから違反だ、などと言われちゃうとね、こりゃ何のための摘発なのかって考えちゃうよね。納得できないんだよね。
こないだね、新聞の投書欄で読んだんだよ。中学生の女の子の投書だったんだけどね。お母さんの運転する車に乗っていたら、やっぱり一時停止で切符切られたんだって。そしたら正義感でみなぎってる中学生は思ったわけだ。何でコソコソ隠れて違反者を捕まえるんだろうって。止まれの標識の前に立って、皆さんここは危ないですから止まって下さいねってやってくれたら、みんなもっと気持ちよく止まれるだろうにって。その通りだよ。おじさんもそう思うよ。みんなそう思ってるはずだよ。 だけどなんだね、オレもずいぶん払ったけどね、あの罰金てえのはどこの勘定に入って何に使われるんだろうね。それにさ、なんで今時分になるとオマワリは罰金取りに励むんだろうね。え? オマワリなんて言い方は失礼だって? なに言ってんだよ。せこい権力を笠に着て市民をいじめるようなやつはオマワリで十分だよ。コマワリでもいいくらいだ。そういえば、昔そんなタイトルの漫画があったっけな。今日は言いたいホーダイだぞ。頭に来てるんだからな!
大鹿村釜沢の家は、昔ながらの建物だった。狭い庭からは、赤石岳の稜線が望めた。はるか下の小渋川沿いの道を、1日2本だけの下界と往復するボンネットバスが、土煙を上げて走っていくのが見えた。
その家の床の間には、大きな日の丸が張ってある。この家の持ち主「食堂のおっちゃん」は、右翼だというウワサを聞いていたが、どうやらそれは本当のようだった。その人がなぜ「食堂のおっちゃん」なのかといえば、S達が通う高校の校内で食堂を経営しているからだ。そのおっちゃんがなぜこんな山奥に家を持っているかといえば、「野生生物調査隊」という怪しげな団体を立ち上げて、動物を追いかけている関係からだ、とSは2年生から聞かされていた。なぜ動物を追いかけているのかといえば、鉄砲を撃つためだ、ということだった。 大河原まで買い出しに行かされた1年生のSは、途中でばてて座り込んでいるところを、スクールバスに拾われて釜沢に帰り着いた。学校に通う小中学生だけでなく、一般村民も50円払うと乗せてくれるスクールバスが、夏休み中でも走っていたのだ。Sはスクールバスが目の前に止まってくれた時、地獄でホトケに出会ったような気がした。こんなバスがあることは、きっと2年生たちは知らないだろう。乗ってはいけないと言われたのは路線バスのことで、このバスはバスではない…。Sはスクールバスに揺られながら、2年生に問い詰められた時に備えて、へ理屈を考えていた。 ところが、Sがバスに乗って帰ってきたことは、すぐにばれてしまった。あれだけの荷物を背負って帰って来たにしては、ちょっと早すぎると2年生たちが言い出した。問い詰められたSは、切り札のへ理屈をこねる前につじつまが合わなくなって、しどろもどろになった。おまけに、部落の中でSがスクールバスに乗っていたことを、証言する人もいたのだ。 釜沢には、まだ電話が普及していなかった。部落の中でただ1軒、ナカムラさんという家に、公衆電話があるのみだった。その公衆電話も、ダイヤルの代わりにハンドルをぐるぐると回し、交換手に相手の番号を告げて取り次いでもらうという方式だ。通話が終わって受話器を置くと、電話局から料金を告げる呼び出しがあり、その金額をナカムラさんに支払う、というものだった。そんな方式の電話が、まだ現役で残っていることをおもしろがって、2年生たちは毎晩のように友達の家に電話をかけに行っていた。 そのナカムラさんのおばさんが、スクールバスに乗っていたのだ。 そして、その晩にまた電話をかけに来た2年生のHに、「スクールバスが、背負子に一杯荷を積んだ子を途中で拾った」と話したのだった。Sがバスに乗って帰って来たことは、あえなくその日のうちにばれてしまった。 翌日、2年生はSに罰を与えた。家の正面には、赤石岳に突き上げる小渋川が流れている。その右側の山の頂上まで登ってこい、というものだった。その山の上半分は、植林中でハゲ山になっている。双眼鏡で見ると、植林をしている人の動きまでが見える。本当にSが登っているかどうかは、逐一手に取るように分かる。ただ、ここに来てまだ2日目のSだけが、そんなことを知らなかった。 Sは川まで下り、壊れかけた長い吊り橋をおっかなびっくり渡り、山に登り始めた。途中から、鬱蒼とした樹の中を一人で登るのが恐くなり、ラジオを聞きながら登った。1時間ほど登ると、植林の人たちの飯場があり、おばさんがいた。おばさんは、少年がこんなところに一人で来たのを不思議に思った。「まあ、お茶でも飲んでいきなさい」と誘われるままに、Sは飯場に上がり込んだ。飯場にはちょっとHな漫画や週刊誌が一杯あった。半分ふてくされて登っていたSが、その誘惑に勝てるわけがなかった。Sはラジオで高校野球を聞きながら、エッチな本を読みあさっているうちに昼になった。Sは持ってきたおにぎりを食べ、昼寝までした。 釜沢の家では2年生とおっちゃんが、いつまでもハゲ山に現れないSのことを、心配するよりも呆れていた。「あいつのことだから、絶対にどこかで遊んでやがる」と言い合っていた。 そうとは知らないSは、夕方になって何食わぬ顔で家に戻ってきた。そして、山が途中から丸見えだったことを知って慌てたのであった。
1972年(昭和47年)8月、高校一年生の少年Sは、東京のはずれで怠惰な夏休み生活を送っていた。山岳部の夏山合宿に指の骨折で参加できなかったSは、2年生から骨折が治ったら大鹿村に来るよう命令されていた。大鹿村という場所はおろか、村の名前さえ知らないSだったが、その村での出来事はSの人生に後々大きな影響を及ぼすことになったのである。
8月上旬のある日、Sのもとに大鹿村から電報が届いた。夏山合宿の後、すぐに大鹿村に行った山岳部で1年先輩のMから「イツクルカレンラクセヨ」という内容だった。東京では、電報などすでに滅多なことでもない限り使うことのない時代だった。Sは電報を打つために近くの郵便局に行った。初めて見る桝目の切られた電報の申し込み用紙に「7ヒアサニイク」とだけ書いて窓口に渡した。「7ニチ」とではなく、電報では「7ヒ」と書くものだ、と高校生のSはなぜか知っていた。 郵便局の窓口のお姉さんは、まだ就職したてのようでとても親切な人だった。文面をさらりと読んだ後、「同じ料金であと8文字書くことができますよ」と教えてくれた。お姉さんが親切に教えてくれたのだから、何とか桝目は埋めてあげよう、とSは思った。しばらく紙と睨めっこをした後、Sは「アトカクコトナシ」と書いて窓口に出した。ちょうど8文字だ。再び文面を読んだお姉さんは、吹き出して顔が真っ赤になった。Sも急に恥ずかしくなった。そして、料金を払い終えると、逃げるように郵便局をあとにした。 8月6日。Sは新宿から一人で夜行の急行「こまがね」に乗り、伊那大島で降りた。伊那大島の駅前にはボンネット型のバスが待っていた。バスは小渋川沿いのくねくね道を、ゆっくりと登って行った。山肌を忠実になぞるような道は常に曲線を描いていて、東京の真っ直ぐな道しか知らないSは感動した。すごいところに来たものだとうれしくなった。ダムを越え河原が広くなると、村らしい景色になってきた。途中の道からはとてもこの先に村があるとは信じられなかっただけに、Sは少し安心した。いくつかの店がある大河原という停留所を過ぎると、道は狭い砂利道となり、坂はさらに急になった。釜沢入口という停留所でSは特大のキスリングと共にバスを降り、炎天下の砂利道を釜沢の部落に向かって歩いていくと、部落の入口で2年生のMとHが待っていた。二人はSが本当にここまでやって来るのかどうか、半信半疑だったのだ。なぜなら電報に「アトカクコトナシ」という意味不明の言葉があり、それは何かの暗号で、Sは来るような振りをしておきながら本当は来ないのではないか、と疑っていたからだった。 1年生のSは釜沢についた翌日、2年生二人から用事をいいつけられた。村の中心である大河原の部落まで行き、農協で食糧の買い出しをしてくることだった。ただし、行き帰りともバスに乗ってはいけない、という条件付きだった。Sは背負子を担ぎ、一人で昨日バスで登ってきた道を下っていった。「大河原なんてすぐそこだから、早く帰ってこいよ」という2年生の言葉を信じて、Sは炎天下の道を歩いていった。 2年生は「すぐそこ」と言ったが一生懸命歩いても、大河原までは2時間もかかった。さらに、買い物のメモには缶コーラが2ケースも含まれていて、帰り道は30kgもの荷物になった。Sは途方に暮れた。あの長くてくそ暑い道を、この重い荷物を担いで帰るのかと思うと、泣きたくなった。 Sは30kgの荷を担いで歩き始めた。5分も歩かないうちに体中から汗が吹き出し、顔からも滝のように汗が流れ落ちた。一歩進むたびに、乾いた道路の土にSの汗が、1粒2粒と染み込んだ。 Sは頑張って歩いた。行きに2時間もかかった道を、この荷物を背負ったなら何時間かかるかを考えると、気が遠くなりそうだった。1回、2回と休むうちに、気力が萎えていった。途中の部落では畑の人から「頑張りな」と声を掛けられて見栄をはって歩いたが、その部落を過ぎるとSはもう完全にばててしまった。日陰に座り込むと、もう動く気力がなくなってしまった。まだ半分も進んでいない。その事実がなおさら体を動かなくさせた。もうすぐ、昼になる。昼飯は釜沢に帰らなければない。腹が減った…。 Sは背負子にもたれかかったまま、もう動けなくなった。顔のあちこちから汗とも涙ともわからないものが吹き出ては、あごから滴り続けた。
ある朝、新聞を開くと、長野県版にどこかで見たような人の写真が載っていた。「おっ、よっちゃんじゃないか」。野菜欄によく名前が登場する飯田の有機農家、吉沢さんだった。この人とは東京の店で働いている時に、3年間コンビを組んで店番をしていた付き合いの長い人だ。隣でごはんを食べていたチビ娘と一緒に記事を読むと、今年の春から訓練に出していたモンキードックのバナナの活躍についてだった。バナナとは犬の名前で、わが家の迷犬みかんと同じようにおいしそうな名前なのだけど、何を隠そう迷犬みかんは、元はといえばその吉沢家に居ついてしまった迷い犬だったのだ。
モンキードッグとは、畑などの耕作地を猿の食害から守るために、特別の訓練を受けた飼い犬のことで、このあたりではまだ珍しい試みだ。昔から言う犬猿の仲は今も険悪のようで、犬は猿をよく追いかけ、猿はまた犬が大嫌いなのらしい。だから、集落の周りに出た猿をバナナが見つけるとワンワンと吠えながら山まで追い散らすという活躍なのかと思ったら、そうではなかった。追い散らすだけではすぐに猿は慣れてしまう。徹底的に猿を追い払うには、もっと大変な作業が必要なのだった。 まず、猿を見つけたらバナナを繋いで連れて行き、猿のそばで放す。するとバナナは猛然とダッシュして、猿を木の上に追いつめる。そこに人間が追い付き、ロケット花火を猿に向かって発射する。ロケット花火のピ~という笛とパ~ンという破裂音で、猿は恐怖におののき小便をちびる。さらに何発もロケット攻撃を続けると××コもちびる。ロケットを発射した後に、木の下でボーッと猿を見上げていると大変なことになるらしい。でも、そこまで猿に恐怖を植え付けてやると、その個体は当分集落の近くにはやって来ないのだそうだ。 吉沢家がこの地に入植した21年前は、時々イノシシがポップコーンの畑でパーティーを開いた跡が見つかったりしたけれど、猿など1匹も見かけない静かな山里だった。ところが10年ほど前から猿が現れるようになり、今はかなりの食害を被るまでになってしまった。熊や鹿も困りものだけれど、猿は多少知恵があるだけに、山間地の生産農家にとっては大変な敵なのだ。 猿と人間の知恵比べは、いろいろな方法でも行われている。吉沢家の畑の近くには、猿をおびき寄せて捕まえる檻があって、鉄パイプを組み網で全面を覆ったかなり大がかりなものだ。ある時、何をその人は思ったのか、檻の中に入ってみたらしい。ところが…、そこは猿を捕獲するための檻だから、入ったら当然出られない。ケータイなんか持っていない…。その人はじっと檻の中で待ち続け、連れ合いが通りがかった時に「お~い」と助けを求めたそうだ。こうなると猿と人間のどっちが賢いか、大変微妙な様相だ。その人が誰か、なんて…とてもここには書けない。絶対書けない。 ![]() 緑に囲まれ、南アルプスを望む吉沢家
今年も早いもので、11月になった。霜月である。霜月といえば、遠山郷の霜月祭。
9月に下栗を訪れた際には、霜月祭が行われる神社の中を見ることができた。見ることができたというよりも、カギが開いていたので勝手に入って見てしまった。地元のみなさま、怪しいものじゃあございませんので、どうかお許しを。 ![]() こんな角度から建物を見るのも、この地ならでは。 ![]() ここにぐらぐらと煮立った湯が沸く。 ![]() ふと入り口を見やると、天狗さまが・・・。 下栗は今や有名な観光地である。日本のチロルだとか、チベットだとか、ポカラだとか…。そう言われるとまずは足を向けたくなるはずなのに、実は今回が初めての下栗。メディアに取り上げられると、へそがウズウズと背中に回り、急に足が後ずさりを始めてしまうからである。 その下栗はどうだったのか、と問われると、あまり感動がなく「ああ、こんなものだよね」という程度であった。それは下栗が大した所ではない、という意味ではなくて、全く個人的に「どこか見たことのある風景」の一つに過ぎなかったからなのである。 その理由となる体験がもう40年近く前の大鹿村であって、それを書き起こした文章がどこかにあるはずだと探してみたところ、あった、あった。お恥ずかしい体験記録が・・・。 アンデスのおだてに乗って、ブタはまた木に登ろうというわけです。じきに準備ができましたら、また連載いたしますので、お読みいただければ幸いです。
今、わが家で使っている薪ストーブは米国製で、薪を効率よく燃やし、排煙も火の粉が出ないよう安全性にかなりの配慮がされています。前面がガラスになっているので薪が燃える炎がよく見え、視覚的にも暖かさを感じることができます。私は昔から燃える炎をじっと見ているのが好きで、ゆらゆらとした炎を見ているとどこか気持ちが落ち着くような気がします。
実はこのストーブは2代目で、初代は焼却炉のような実に簡単な構造のストーブでした。横幅が60cmほどで高さが1mもある縦長のキッチンストーブ風で、お値段は何とわずか7000円。伊那にある県の技術専門校の溶接科で実習として作ってもらったものなので、ほとんど材料代だけの値段だったのです。この技専校のストーブは安かったので、当時は横長のものも含めあちこちで使われているのを見かけたものでした。 技専校からストーブを運び出すときは、100kg以上もある真っ黒なストーブにロープをかけて、それを長い角材で担ぎました。その様は、まるで猟師が仕留めたクマを運んでいるかのようでした。 ストーブの構造が簡単だということは、排煙も焚火と同じような状態で煙突から出てくるわけで、ぱちぱちと薪がはぜると煙突の先から真っ赤に火の粉が散る、という有様。煙突に曲りをつけると火の粉は結構防げるものなのですが、わが家の煙突は屋根まで真っ直ぐの立ち上がりでしたから、空気の引きも強いし、火の粉はダイレクト噴射状態。ちょっと寒いからと薪を多めに入れたりすると、ストーブが大魔神のように顔を赤くして怒り狂う、という代物なのでありました。 それは1月のある寒い晩のこと。私が家に帰りついてドアを開けると、妻がただならぬ形相で「大変!火事!!火事!!!」と叫んで走り回っていました。あわてて中に入ると、ストーブの煙突と天井の杉板の間に挟んである断熱用メガネ石の周りから、火の粉がたくさん部屋に落ちてきています。煙突はかなりの熱を持つので、屋根裏に石綿板でチムニーを作り、壁から30cm離して屋根に通していました。そのチムニーの中に、煙突から出た火の粉が相当溜まっていたらしく、それに火がついて天井の杉板を焦がしていたのでした。 私が帰ってきたのは、その火の粉がパラパラと本を読んでいた子どもたちのそばに落ち始めて、天井が焦げていることに気がついた直後だったので、危機一髪、消し止めることができました。これが数分気づくのが遅れていたら、火の粉だけでなく焦げた杉板にポッと炎が出て、あっという間に火が広がっていたことでしょう。あとから思えば、実に際どいタイミングでした。 それから数日後、私はすぐにストーブを買い替えることにしました。もちろん煙突から火の粉が出たりしないことを大前提に・・・。
秋が深まって、そろそろ薪の準備をする時期になりました。我が家では冬の暖房は薪ストーブがメインなので、毎年300束ほどの薪を使います。薪の1束は一定の長さ(長さは忘れちゃった)の番線を結んだ輪の中に詰めたもの、と決まっています。だから基本的にどこでも1束(または1タガ)当たりの量は同じ(はず)なのですが、木の種類によって微妙に値段が違います。
一番高いのはナラ。小さなドングリが生る木ですね。硬くて目が詰まっているので火持ちがいい。1束あたりの目方も重くなります。その次はサクラ・ニレ・アカシアなどの広葉樹で雑木とも呼びます。ナラに比べると2割ぐらい安い。一番安いのは間伐材などの針葉樹でナラの半額ぐらい。 我が家はビンボーなのでナラなんて高い薪は買えず、いつも雑木です。別荘地などに住んで薪ストーブをおしゃれに使いたい人は、高くたってナラでなければ薪ではないと思っている人もいるらしい。だからそのうちナラばっかりが伐られて、山からナラの木が無くなってしまうかもしれない。 そもそも薪ストーブは、燃えるものなら何でも燃やせるわけなのだから、ナラだろうが竹だろうが薪は何でもいいのです。我が家では近くの大工さんから建築材の切れ端や、製材所の切れ端から、果てはコンバインを買った近所の家から、いらなくなった田んぼのはざ棒やはざの足までもらってきて薪にしてしまいます。木であれば何でも燃やして暖をとれるのが、薪ストーブの長所なのです。 薪ストーブを使い始めた15年ほど前は、山梨にあるサントリーの工場からウィスキーの樽材を、1トン以上入るコンテナ1杯で今では信じられない値段で譲ってもらえました。ホワイトオークなんていう薪にするにはもったいない材で、まだウィスキーの香りが沁み込んだままで家の中に運び込むといい香りが漂ったものでした。今でも鏡板は庭にどっさり積んであります。 やがてウィスキーが焼酎に押されて売れなくなり、樽材をもらいに行っても取り合い状態になりました。樽工場の人に「もっとウィスキー飲んでくれなきゃ薪も出ないよ」などと言われて間もなく、樽材はまったく手に入らなくなりました。どうやら家具メーカーが目を付けたようで、ウィスキーの樽を使ったという触れ込みの高級家具に化けてしまったようです。思えばぜいたくな薪でありました。 来週は、薪ストーブで火事になりそうになったお話を・・・。
毎週月曜の山歩きも終盤になった。10月19日は、6月に行ってもう一度秋に行こうと思っていた戸隠へ。
![]() 戸隠奥社の鳥居。ここから2kmほどのまっすぐの参道が、奥社まで続いている。途中の門までは原生林の中の道。門から奥は巨大な樹齢数百年の杉並木。 ![]() 原生林の中の参道を見上げると、カエデが赤くなり始めている。 ![]() 途中の門から左折して、「熊に注意」の看板が立ち並ぶ中を進むと、そこは植物園の遊歩道。鏡池に向かって歩いていくとお稲荷さんがあって、、そこにこんな女の人がいる。 ![]() 向かい合って男もいた。どちらの前にも油揚げとお米が供えられていた。男の姿はマタギのよう。 ![]() 鏡池から望む戸隠山。たくさんのカメラじじいがいて、みんなで同じように三脚を立て、同じような風景をカメラに収めている。みんなで同じものを撮って、それぞれのカメラに絵葉書のような風景が切り取られて・・・。何が面白いのか、よく解らない。ここからのお風景はまるで風呂屋のペンキ絵のようでもあり、富士山を前にした太宰のように、ボクは照れてしまった。 ![]() 再び遊歩道に戻って歩いていると、林の中にはこんな青い実をつける木もあった。黄色と赤ばかりのトーンの中で、青い実は光っていた。神様はバランスをとるのだ。 ![]() 「熊に注意」の看板があまりに多いので、多少びびりながら歩いていたら迷ってしまった。ぐるぐる歩いた末にこんな池に出た。みどり池という。傾いた日差しが木立の中から射していて、紅葉がシルエットになって帰り道を見送ってくれた。
茅野の安国寺から国道152号で杖突峠を越えると、今は伊那市となった高遠町になり、道は藤沢川に沿って南に下っていきます。ひなびた山村といった風景の中を走っていくと長藤郵便局があり、そのすぐ先の左側の道端に唐突に「本」という小さな看板が立っています。意識しないで走っていくと見落としてしまうような小さな看板ですが、そこにはなかなか素敵な古本屋があるのです。
その建物は道に寄り添うように立っているので、車は100mほど先に行った右側の空き地に止めて、ちょっと歩いて戻ってきます。中に入ると、江戸時代に旅籠だった建物なので、柱や壁に風格を感じます。入った土間や右手の厩だけでなく、左に続く座敷にも書架が設えてあり、床の間にも大盤の写真集が並んでいます。畳に胡坐をかいて古本を手にとると、昔の家の納戸で人目を忍んで蔵書の頁を繰っているような気分になります。 私が最初にこの「高遠・長藤文庫」を訪れてみようと思ったきっかけは、畳の部屋でごろりと横になってコーヒーを飲みながら古本を読める、というキャッチコピーに惹かれたことでした。絵にかいたような粗忽者の私がそんな恰好で本を読むと、本にコーヒーをこぼすことが目に見えているので自重しましたが、実際にごろりとしても店主(共同経営のお一人)のOさんはイヤと言わないでしょう。 私は本を読む時間など一日に多くて30分ほどしかない身なのですが、それでも図書館に行くと毎回5冊は借りてしまいます。実際に読めなくても、面白そうな本を探して手にしてみる、というのは楽しい時間です。都会の大規模書店に行くと、丸一日うろついていたって平気かも知れない。その楽しみの条件は、売れ筋とは関係のない本が書架にたくさんあること。思わず「へぇ…」と手を出してしまうような本が、たくさんの本の間にちんとすまし顔で置いてあること。 「高遠・長藤文庫」は古本屋ですが、最近はやりのブックナントカのように古い文庫本をタダで引き取って100円で売るようなあこぎな商売ではなく、神田の古本屋のような骨董品のような本ばかりでもなく、ちょうど図書館のようなハードカバーが中心の品揃え。当然ですが、図書館よりちょっとマニアックなジャンルがあったり、サブカルも多かったりするところが古本屋としてのミソです。 おいしいコーヒーも飲めます。そのコーヒーとは最近CAMBIOでも人気上昇中の、コスタリカの至宝と呼ばれる「Britt(ブリット)」。これは先週もご紹介したクセになるおいしいコーヒーです。「高遠・長藤文庫」では丁寧に一杯ずつハンドドリップで入れてくれるので、とくに美味しく感じます。 コーヒーを飲みながら選んだ本をぱらぱらめくる。気が向いたら素朴な人柄の店主とお話しをしてみるのもいいでしょう。なかなかいい時間を過ごせます。ぜひ一度お出かけください。 長藤文庫のブログと信濃屋中米商店のブログがまた秀逸なので、ぜひご覧になってください。 【住所/電話番号】長野県伊那市高遠町長藤7053(〒396-0305) TEL&FAX:0265-96-2677 【営業時間】平日:午前11時~午後5時 土日祝:午前10時~午後6時 定休日:毎週火曜・水曜
1月13日。風は収まるどころか、更に強くなってきた。これは季節の変わり目に来たようだ。
昨日の行動でわかっているだけに、もう可能性を探ることもない。 すべては終わった。登頂失敗。下山にかかる。 インディペンデンシア小屋から、C1へ。C1を片付け、すべての装備を担ぎ、一気にBCまで下る。C1を片付けながら、この間すれ違った日本人K氏が、頂上の直下にテントを張ってもう2ヶ月あまりもそこに「住んで」いる奴がいた、と言っていたことを思い出す。その男はようやく頂上に辿り着いた人たちに「少しでもいいから食糧を置いて行って欲しい」とせがむのだそうだ。この風の中、その「住人」はどうしているだろうか。 BCに下る途中、下からTが登ってくるのに出会う。日程からして今日が行動最終日になるので、C1で出迎えるつもりだったようだ。5人でBCに下る。BCより上部で5人が揃って行動するのは、これが最初で最後になった。 夕方、BCに着く。ここでは風が吹いていない。C1から下ろしてきた食糧や装備を片付けていると、となりのメンドーサ大学のテントから大柄な男がやってきた。流暢な英語で「私はとてもあなたに感謝しなくてはならない…」と言う。あの意識不明で私たちのC1に転がり込んでいた男だった。ヘリでC1からメンドーサの病院に運ばれたのだが、すぐに回復したのでまたBCまでやってきたのだ、という。いまさらここまでやってきても、これから頂上を目指すのは無理だ。わざわざお礼を言うために、またBCまで登ってきたのだろうか。 1月14日。朝、BC一帯は雪に覆われる。雪を踏みながら、のんびりとBCを片付ける。下りは一日で「インカの橋」まで下りてしまうので、明日の朝の出発で十分間に合う。メンドーサ大学パーティも片付け始め、BCのテントの数も大分減ってきた。 1月15日。ムーラ3頭に荷物を積み、私たちは歩いて「インカの橋」に向かう。相変らず炎天下の河原だ。コンフレンシアの渡渉では、対岸に居たアメリカ人パーティにザイルを投げ、お互いにチロリアンブリッジで渡る。むかし、トレーニングでやったことがあるだけのチロリアンだったが、初めて実戦で使うことになった。何でもやっておくと、忘れたころに役に立つものだ。 河原のお花畑の花は、もうすっかりと咲き終わっていた。オルコネス谷から振り返ると、アコンカグアが夕日に染まっている。大きな山だ。旗雲がなびいている。雪のある頂上付近はまだ風が強いのだろうか。 1月16日。バスでメンドーサに。ワインが特産の、どことなく南欧ようなの雰囲気の街だ。アルゼンチンはヨーロッパからの移民が多い国だからなのだろう。道のあちこちにカフェがテーブルを出している。夜の9時になろうというのに、町の中は人でごった返している。この国の習慣では午後のシエステの後、夕方から夜の8時ごろまで仕事をし、それから夜中に近い時間までが夕食タイムなのだ。 そのカフェのテーブルに5人で陣取り、ビールを注文する。登頂に成功した後であれば祝杯となるのだが、無事に下りてきただけで祝杯というわけにもいかず、意気の上がらない乾杯となる。今回の遠征は、Tの高山病に始まる予定外の行動に終始するうちに、登頂の機会を逃してしまった。決定的だったのは、高度順化が済んだ後で一度BCに下りたことだろう。若いOや体調をうまく保っていたSにとっては、不満の残るであろう結果になってしまった。しかし、彼らにはまだ何度となく海外に出るチャンスがあるだろう。 ビールがうまい。インスタント食ばかりが続いていただけに、食べるものすべてがうまく感じてしまう。カフェのテーブルは道路の歩道にあるので、目の前を人が歩いている中での食事だ。回りで常に人が動いているというのは、慣れないだけに目が回るようだ。「セルベッサ・ポルファボール(ビールを下さい)」と、ボーイを呼んでビールをおかわり。 久々のビールだけに、回るのが早い。目が回る様に見えるのは人がせわしなく歩いているからだと思っていたのだが、それにしては変だ。テーブルも回っている。おかしい。急に本格的に目が回ってきた。耳元で聞えていたさまざまな音が、遠くなっていく。まずい…。これはぶっ倒れる前兆だ。歩道を背にして座っていた私は、急いでどこか横になれる場所を探した。すると歩道の向こう側にビルの入口があり、そこが広くなっているのが見えた。フラフラと立上がり、歩道を横切ろうとしたが、そこで意識が切れてしまった。 かなりの時間、人通りの激しい歩道を塞き止めるようにして、私は意識を失っていたらしい。やがて、耳に音が甦ってきた。「アンビュランス(救急車)を呼べ!」という大きな声がする。英語で「私は医者だ」と名乗る人まで現れた。これはまずい。大騒ぎになってしまった。ほとんどまともに意識が戻ってきたが、これではとても起き上がることはできない。傍らにいるHに日本語で「もう大丈夫だ。人払いをしてくれ」と頼む。Hが身振り手振りで必死に大丈夫だ、と伝えようとしている。私はもうしばらく騒ぎが収まるまで、路上で死んだふりを演じていることにした。 アンデスにて後日談 アンデスに出かけて以来すでに長い年月が経過し、生まれたばかりだった長女は間もなく24歳になろうとしています。もう充分に遠い昔の話となってしまったこの登山の記録を、なぜ今になってまたほじくり出したのかといえば、ちょっと虫干しをしておこうかということだけで、深い理由なんか特にありません。 これを登山の遠征記録と読むのか、23年前の旅行記と読むのかは微妙です。それは今だから微妙なのではなく、当時としても旅行なのか登山なのか微妙だったのではないか。それが登頂できなかった最大の原因なのではないか、と今回読み返して思うようになりました。 さまざまな予定外のトラブルが続いたとはいえ、どうしても登頂という結果を持って帰らなくてはならない、と常に感じて行動していたのなら、最後のチャンスで一旦BCまで下りることはしなかっただろうと思います。自分に子供が生まれたことなどで、どこか甘さがあったように思えるのです。 計画を立て始めた当初とは参加するメンバーも変わり、経験の浅いもの、年齢の高いもの、さらには夫婦まで含めた渾然一体となったメンバーとなりました。その一人一人が考えていることを慮る余地が足りなかったのではないか、と当時の自分に問うこともできます。しかし、今になっても十分にできないことを23年前になどできるわけがなく、人間としての力不足がまざまざと文中から浮き出してくるのでした。 メンバーだった当時18歳のO君は、この数年後にヒマラヤで雪崩に埋まって還らぬ人になりました。母一人子一人だった母の元には遺髪さえ戻らず、大変悲しい結果になりました。父親代わりを求めて、青年期の湧出るような情念をいつも年上の者にぶつけていた彼は、結局よい相手に恵まれず、薄い障子のような壁を突き破って、向こう岸にまで飛んで行ってしまいました。アンデスでの不完全燃焼が、彼の情念に油を注いだのかもしれません。 アタックの際にC1近くで出会ったKという日本人は、その後冒険家として注目を集めた河野兵市氏で、彼も2001年に北極海から歩いて日本を目指す途中で、氷の割れ目に落ちて亡くなりました。
1月10日。Hも胃痛を押して、上へ登ることになった。今日はC1までだからあせることはない。
出発前、となりの大学生テントから、年配の人が挨拶に来る。昨日意識不明になった学生はヘリで病院に運ばれ、無事回復したそうだ。病院のドクターが、意識不明の時に酸素を吸わせたことが実に効果的で、もしそれがなかったら危なかったといっているらしい。プロフェッサー(教授)という名刺を差し出したその人は、「あなたのおかげだ」と手を握り締めて放さない。こちらは嬉しいよりも、どことなく変な感じだ。あの状況では、貴重な酸素を分けてあげざるを得なかったことは確かだ。しかし、私たちのテントに転がり込んでいなかったら、どうだっただろうか。わざわざとなりのテントまで出向いて、いざという時に自分の命を救うために持ってきた酸素を分けてやるほど、私もお人好しではない。「メンドーサで是非私たちの大学に寄って…」というお誘いまで飛び出したが、こちらは予備日も消化しそうな日程なのだ。にっこり笑って、手を振りほどくように外して、出発する。 すでに何度も登ったC1までの道を、また登る。単調な電光型の道を登って行く。 C1手前の緩斜面で、日本人と思しき男が休んでいる。お互いサングラスをかけ黒く日焼けしているので、どこの国の人か解りにくくなっているのだが、着ているものや雰囲気で日本人と解ってしまうものなのだ。こんな時は「Hello」でも「Hola」でもなく「どうも」と声を掛けてみる。日本人であれば「やぁ、どうもどうも」と返ってくるからだ。 そのKという日本人は、すでに日本を出て3年も自転車で旅を続けているらしい。あちこちを回るうちに山にも登りたくなり、アラスカでマッキンリーに登ってしまったのだという。それから、どうせ登るなら五大陸ぜんぶ登ってしまえ、とアコンカグアにもやってきたのだそうだ。すでにペルーで高度順化は済ませてきたので、インカの橋からわずか6日で登り切り、今は下ってきたところだという。この次はどこへ行くんだ、と問うと「わからない。いつも走りながら決めるから…」 やっぱりこんなところにも居るんだ、こういう奴が。うらやましい…。 1月11日。Tを除く4人で、C1からインディペンデンシアへ。畳2枚分ほどの小さな小屋に4人が収まる。6400m。さすがに寒い。これで風が強くなったらテントはなかなか辛い。小屋の中は多少狭くても、テントよりは風がしのげるだけ楽だ。翌日の出発に備え、夕暮れには寝袋に入る。小屋の入口とは反対側に、小さな窓が付いている。その窓から夕日がゆっくりと沈んでいくのが見える。この高度で夕日が眺められるとは思わなかった。 その夕日が完全に沈んだ頃、突然小屋の戸が開き、大柄な男が身体をねじ込んできた。4人でもかなり狭いところに、さらにアルプスでガイドをしているというドイツ人の男が加わることになった。こんな時は、早く眠った方が勝ちだ。ところが狭い上に高度の影響で息苦しく、なかなか寝付けずにいるうちに、ドイツ人のいびきを聞かされることになった。ヨーロッパのガイドは行動や決断が素早いとは聞いていたが、眠るのも早かった。 1月12日。夜中、「グオー」という風の音で眼が覚める。 小屋がきしむような、強い風が吹き始めた。なんということだ…。 夜が明けた。 風が吹いている。入山以来、今までにはない強い風が吹いている。真冬の富士山を上回る強い風だ。 ドイツ人のガイドは、ビスケットをかじりながら頂上へ向かう準備を整えている。 私たちも、フリーズドライの玄米かゆを腹に流し込む。食事というより、儀式のようなものだ。これで腹がいっぱいになる訳ではなく、とりあえず腹を黙らせるだけだ。もう、この玄米かゆにも飽きた。下に降りたら二度と口にはしないだろう。 ドイツ人は小屋の中でアイゼンを着けながら、「君たちはどうする?」と聞いてきた。どうする、という問いにドイツ人で山岳ガイドでもあるこの男にも、迷いがあることが解った。それだけ強い風だということだ。 私たちが経験した最も強烈な風は、冬の富士山の風だ。それは、中に人が寝ている大型のテントが100m近くも空を飛ぶような風だった。風速が30メートル/秒を越えると、まともに立っているのも容易ではなくなる。雪に刺したピッケルに体を預け、風に背を向ける耐風姿勢でひたすら耐える。身体の腹側に風が入ると、一気に飛ばされる危険があるからだ。 今日の風は、その富士山の風を上回るかもしれない。私とHは冬の富士山を何度か経験しているが、SとOは未経験だ。今日はその差が大きく物を言うだろう。ここは富士山のような巨大な氷の滑り台ではないとはいえ、風を受けて転倒でもすれば事故になる。 ドイツ人の問いに「少し様子を見てから出る」と私は答えた。こちらは、彼と争うように飛び出せるほどの力量はない。残された日程を考えれば、ここで一日停滞することは可能だ。もう一日だけ、余裕はある。 ドイツ人は寝袋などを小屋に残し、出ていった。私たちも準備を整える。ルートはこの小屋からしばらく岩稜伝いに登り、広い雪原に出る。その雪原を横切ったところの南側にあるピークが6959mの頂上だ。今日の風では雪と岩の岩稜よりも、広い雪原を横切ることの方が難儀だろう。地吹雪にでもなったら動けなくなる。 準備を整え、外に飛び出す。予想通りの強い風だ。HはSと、私がOとアンザイレン(ザイルで結び合う)し、コンティニュアス(滑落などに備えながら同時に動く)ですすむ。ルート自体は広い岩稜なのだが、万が一風にあおられた時のためのザイルだ。耐風姿勢で風を凌ぎながら、風の呼吸の合間に体を起こして前に進む。氷とも小石とも解らない粒が降り注ぐ。小屋より上部は高度順化ができていないだけに、呼吸が苦しい。 1時間ほど登ったところで諦める。じりじりと進むことはできるが、このペースではとても今日中に登頂することは無理だ。無理ならば、これ以上登っても仕方がない。小屋に下る。 アイゼンもザイルも付けたままで、小屋に転がり込む。敗退。 30分ほどしてドイツ人も戻ってくる。彼は岩稜を越え、雪原の入口までは辿り着いたらしい。しかし、雪原は地吹雪で諦めざるを得なかった、と言う。やはり、この風ではそこがポイントなのだ。彼は寝袋をザックに詰めると、そそくさと下っていった。ヨーロッパのガイドは行動も寝るのも早いが、諦めるのも早かった。 私たちはもう一日粘ることにする。立てば頭がつかえるような狭い小屋で一日を過ごす。小さな窓から外の眺めていると、頭の中を様々なことが去来する。家族のこと、一緒に計画を進めながら都合がつかずに参加できなかった仲間のこと、これまでに次々と起きた予定外の出来事…。すべてが明日で決着する。それも自分達が主体的に左右できるわけではなく、風が収まるかどうかという自分達には手の届かないところで決まってしまう。 しかし、それもまた、この遠征の流れなのだ。そう思わざるを得なかった。
1月8日。思ったほど私の頭痛はひどくならなかった。逆にHの胃痛はひどくなっているため、BCに下りてもらう。SとOはC1で休養。私は一人で6000mまで高度順化。夜、頭痛がひどく、食事とれず。
1月9日。3人で6400mの「インディペンデンシア小屋」まで順化に登る。赤茶色の急斜面は6000m付近で稜線に出る。雪の付いたミックスの岩稜をさらに標高差で400mほど登ったところに、犬小屋を大きくしたような、木造の小屋が2軒。それぞれ4~5人も入れば一杯になってしまうような、小さな小屋だ。この小屋を登頂前の最終キャンプに使うことにする。頂上まで、標高差にして約550m。ここから一気に頂上を往復することになる。6000を越えると、さすがに息が苦しい。空が青を通り越して、黒に近い藍色だ。 5200mのC1に戻る。急斜面を下りながらC1を見ると、私たちのテントに誰かが出入りをしている。なんだろう。回りのテントに人がいるのだから、何かを盗んでいるという訳ではなさそうだ。 早く下りたいところだが、ここはまたゆっくりと下りなくてはならない。 C1に着くと、メンドーサの大学生グループが、私たちのテントを取り巻いていた。中に入ろうとすると、ひとりが英語で話しかけてきた。「これはあなたのテントか?」、「そうだ」と答えると、「しばらく使わせて欲しい」という。テントの中をのぞくと、身長2m近い大きな男が、下半身裸で横たわっている。何事だ? 裸の大男は、高山病で意識を失ってしまっていた。C1から上部へ高度順化していたらしいが、C1に帰ってきたところで意識がもうろうとなって、私たちのテントに迷い込んでしまった。みんなで連れ戻そうとしたらしいが、Tがそうであったように無意識に暴れた。そして、そのうちにテントの中で小便を漏らしてしまったのだ、という。おいおい…、やめてくれよ…。幸い私たちの寝袋や備品に被害はなかったが、付き添っている男が布で拭いているところに沁み込んでいるようだ。 6400まで高度順化した私たちも疲れている。特に女性のSは、これではテントの中に入ることもできやしない。回復してもしなくても、早く出ていってもらうしかない。テントの中に入り、様子を見る。裸の大男は完全に意識を失っているわけではなく、時々もうろうとしながらも意識が戻っては暴れる、という状態だ。これはまた酸素を使うのがいいかもしれない。決して安価ではない酸素ボンベだが、仕方がない。マスクをテープで固定してボンベを開く。小さなボンベだが、かなり高い気圧で酸素が入っている。このあと、自分達がこんな状況に陥った時に、いざ使おうとしたらもう酸素が残っていなかったら目も当てられないと思いながら、バルブを最小限だけ開き、わずかずつ吸わせる。 大男に酸素を吸わせながら私の頭の中には、今日このままベースキャンプまで下りてしまう案が浮かんできた。一気にベースキャンプまでいったん下り、胃痛で休んでいるHを連れてアタックをかける…。6400まで高度順化を済ませた私は、もうすっかり遅れを取り戻し、このままアタックを掛けられる状態にまでになった。Hは6000以上まで高度順化を済ませているので、インディペンデンシアに一泊するのは辛いだろうが、アタックに参加できないことはないだろう。このまま私たちだけでアタックすれば、恐らくHは登るチャンスを失ってしまう。一日の猶予でHが行動に加わることができるのであれば、そうしてやるべきではないのか。3年前の計画段階から一緒にやってきた仲間なのだから、チャンスを残してやれないものだろうか。 その一方で、わずか一日の差で天気が変ってしまう可能性も否定できない。そろそろ天気が変わり目にきてもおかしくはない時期だ。それに、どんな事情であれ体調だけは自分の責任なのだから、いったん失ったチャンスは自分で取り返すしかない。一日とはいえ、そのために全員が登れなくなってもいいのだろうか。 酸素ボンベから、酸素が出て行く音がシューシューとわずかに聞える。大男の大学生はまだもうろうとしている。SとOは大学生達のテントに招かれたようだ。私は後に決定的になる今日の行動をどうするか、一人で迷っていた。 下半身裸で、私たちのテントに横たわっていたアルゼンチン人の大学生は、酸素を1時間ほど吸わせるとおぼろげながら意識が戻ってきた。自分で何をしでかしたのかなど、全く解っていないようだ。仲間を呼んで自分達のテントに引き上げてもらう。あとは自分達で介抱してやるべきだ。 私は迷った末、いったんBC(ベースキャンプ)まで下りることにした。特に下りなければならない理由はない。下りたからといって、Hが再び行動に加わることができるかどうかも解らない。それでも、どこかにこのまま頂上に向かってもすっきりしない雰囲気があった。 SとOを大学生達のテントから呼び出し、BCに下ることを告げる。Sはほっとした表情を見せた。HとSは夫婦だから、ここまで来て胃痛に苦しむHのことが気にならないはずはない。Oは怪訝そうな顔をしたが、特に異議を唱えることもなかった。 C1のテントの中を片付け、BCに下る。下っている途中、上空をヘリコプターが飛んできた。C1の上でホバーリングをしている。大学生達との別れ際に、高山病はなるべく早くしたに下ろした方がいいと言った時に「無線でレスキューを呼んだのでOKだ」と言っていたのを思い出した。レスキューとはこのヘリのことだったようだ。さすがは地元だ。私たちがガウチョに2日も待ちぼうけを食わされたのとは、随分違う。 BCに着くと、Hと共にTがいた。今日、ムーラに乗ってインカの橋から戻ってきたところだという。1週間ぶりにメンバーが揃って顔を合わせる。高山病と感染症から回復したTと、胃を病んでしまったH。予備日を入れてあと5日間しか残っていない日程。高度順化はTを除き4人は出来上がった。明日より、ここから行けるものだけで頂上アタックに出ることにする。Tは別行動でC1まで、無理をしない範囲で動く。問題はHだが、明日の朝自分で判断してもらうことにする。行動予定は、明日はC1まで。明後日にインディペンデンシアに入り、3日後に頂上に向かう。予備に1日。そして予定通り14日にはC1を撤収してBCに下り、行動を終了させる。 Tが戻ってきたことで、一番嬉しそうだったのは最年少18歳のOだった。Oはわずか3歳の時に父親と死別した影響か、誰彼となく年上の人に父親役を求めてくるところがある。今回のメンバーではやはり最年長のTにその役目を求めていたのだが、そのTがリタイアして父親不在となっていたからだ。Tが不在の間、私にその役目をそれとなく求めてくることがあったが、すでにOよりも年上の子供がいるTのようにはいかなかった。母一人子一人の生活では、成長期のはじけるような勢いをぶつけようにも、相手がいない。Oを見ていると、その勢いを山で消化しているように思えた。それはある意味で、とても危険なことでもあった。
誰かが大声で話している。夢か…。いや、スペイン語だ。夢と現実のはざまを漂いながら、寝袋の中で寝返りを打つ。そうか、ここはベースキャンプだ。ひとりでテントに寝ていたのだ。大声が断続的に続いて、はっきりと眼が覚める。最後に『カンビオ』というところから、無線で交信しているのだろう。テントの生地は薄いので、外の声はさえぎることなく聞こえてしまう。『カンビオ』とは英語のchangeとほぼ同じ意味になるが、無線交信では会話を交代するときの『どうぞ』という意味も持っている。
無線で話しているのは、隣のテントの大学生たちだろう。地元のメンドーサから来た彼らが、仲間を呼び出しているらしいのだが、相手が出ないためかずっと呼び続けているのだ。おかげで、最後に一呼吸おいてから言う『カンビオ』が、頭にこびりついてしまった。 昨日は『インカの橋』から、ムーラに乗ってこのベースキャンプ(BC)のある『プラサ・デ・ムーラス(ムーラの広場)』に戻ってきた。私たちのテントには誰もいなかった。無線で呼び出すと、彼らは5200mのC1にいた。BCからの荷揚げを終え、一昨日からC1に上がったという。昨日は6000m辺りまで高度順化をし、3人とも頭がガンガンに痛い、といっていた。当初の予定では、今日はもう高度順化を全て終えているはずだった。1月6日の今日はBCで休養を終え、登頂のためにC1に上がる予定になっている。そして、8日か9日には登頂する計画だったのだから、私はすでに7日、他の3人にしても3日ほど予定から遅れてしまっている。果たして、ロスした時間は取り戻すことができるのだろうか。 BCを一人で出発する。たくさんのテントの間を抜け、電光型に急斜面を登っていく。今日は5200mのC1までの高度順化だ。BCが4300mだから、900mの高度差になる。まったく高度順化ができていない身体で、しかも昨日BCに一泊しただけで5200mまで上がるのは、かなりきつい。しかし、残された時間を考えると、多少無理をしない限り、他のメンバーに追いつく事はできない。 ざらざらの急斜面をひたすら登る。息が苦しい。ペースを変えずにゆっくりと足を前に出す。下には色とりどりのテントが並ぶBCが見える。その北側には上部オルコネス氷河が広がっている。踏み固められた電光型の道が、単調に続く。つまらない登りだ。まるで富士山の登りのようだ。しかし一歩一歩が、確実に高度を稼いでゆく。 C1まで4時間をかけてゆっくりと登る。頭が痛くなってきた。誰も居ないC1のテントに書置きを残し、BCに戻る。先行する3人は、今日も上を目指して荷揚げをしているようだ。 登ったばかりの道を、今度はゆっくりと下ってゆく。単調な道だから、走るように降りれば1時間あまりで、BCまで着いてしまうだろう。ところが、そんなに早く下ると、急な気圧変化で高度障害が激しくなってしまう。頭痛が激しくなってきた。ゆっくりと下らなくてはならないのだが、激しい頭痛が足を早めさせてしまう。BCのテント村につくと、さまざまな言葉の挨拶が飛んでくる。『どこから下りてきた?』、『上は風が出てきたかい?』…。答える気にもなれない。頭が割れるように痛い。一度経験した事とはいえ、予想通りのこととはいえ、このひどい頭痛は本当につらい。 BCのテントに転がり込む。ゆっくり歩いたつもりだったのだが、2時間弱で着いてしまった。簡単な夕食を済ませて、早く寝る事にする。今回の遠征にはさまざまな無償提供があり、某食品メーカーからはインスタントの玄米かゆを1ケースも頂いた。フリーズドライで軽いので、上部キャンプで使おうと思っていたのだが、今日は特別だ。そういえば昼の行動食だった『カロリーメイト』も、無償で提供を受けたものだった。あとで礼状を『インカの橋』で売っていた絵葉書で書かなくてはならない。 1月7日。またしても『カンビオ』攻撃で目がさめた。頭痛はまだ残っているが、じきに治まっていくだろう。C1に向けて一人で歩き出す。BCのテントはあとでTが戻って来た時のために、張り置きにしておく。また、様々な言葉の挨拶がやってくる。英語・スペイン語まではわかるが、ドイツ語・フランス語になるともうお手上げだ。にっこり笑って手を振り、ごまかしておく。 赤茶色の斜面を、今日もまた登っていく。下ってくるパーティが多い。大きなザックを担いで下ってくるのは、もう行動を終えて帰るパーティだ。「(登頂に)成功したか?」とたずねると、ほとんどが「登った」という。真夏とはいえ、いったん天気が崩れればかなりの雪を覚悟しなくてはならないだけに、天気に恵まれたのが大きかったのだろう。乾燥地帯とはいえ、5000mより上部では周期的に天気が崩れる。天気が崩れると、厄介なのは雪もさることながら、強い風だ。今、天気が安定しているということは、やがて崩れるという証でもある。何とか私たちが登頂するまでは、天気が安定していて欲しいものだが…。 昨日と同じ4時間ほどで、C1に着く。5日ぶりに、ようやく別行動の3人に追いついた。昨日の無線交信では、今日も彼ら3人は6000mあたりまで高度順化に出ているはずだ。ところが、C1のテントを開けると、Hが一人で寝袋に入って休んでいる。2~3日前から胃が痛み出し、今日はとうとう休んでしまったのだという。なんということだ。またしても体調不良だ。ようやく私が追いついたと思ったら、今度はまた一人脱落か。 ほかの二人、SとOは予定通りに動いているという。こうなったら、登れるやつをどんどん動かして、一気に登ってしまうしかない。私はザックをテントにほうり込むと、そのまま上部に向かって歩き始めた。少しでも高度順化を進めておきたい。5500m位まででも登っておけば、明日の行動が楽になるかもしれない。その代わり、また今夜は頭痛との戦いになるのだろうが…。
私たちはアントニオの家に宿を替えることにした。レストハウスの主人は勘定を払おうとすると、ひどく不機嫌だった。アントニオを紹介したばっかりに、客を取られたということに腹を立てているようだった。こちらとしても予定外の出費なのだから、そんなに金を使う訳にはいかないのだから、しかたがない。
レストハウスはチリに抜ける国道に面している。その裏側にはレストハウスの豚小屋があり、さらにその裏の不通になっている線路の向こう側にアントニオの家があった。この家のどこに客を泊めるような部屋があるのだろうか、と思うほど質素で小さな家だ。線路を背にして、家と倉庫の間を抜けると、中庭になっている。アントニオの奥さんが洗濯物を干している。まだ歩き始めて間もない子供が、鶏を追い掛け回している。アントニオの姿を見て「パードレ・パードレ(お父ちゃん)」といいながら、もう一人3歳ぐらいの女の子が物置の中から飛び出してきた。 私はちょっと戸惑った。これは、異質な世界に足を踏み入れてしまった。子供たちは知らない人がアントニオについてきたので、こわごわとこちらを見ている。アントニオは私たちにここで待っているように、というしぐさをして、子供たちを連れて家の中に入っていった。 しばらくして、アントニオが私たちを家に招き入れた。Tの具合が大分良くなっている。自分で荷物を持って歩けるようになった。抗生物質が効いたのだろうか。この調子なら、もう大丈夫かもしれない。明日はムーラをチャーターして、一気にベースキャンプまで帰ることにしたい。 アントニオが私たちを招き入れた部屋は、2段ベッドになっていた。子供むけの本が置いてあるところからして、ここは子供たちの部屋なのだろう。それにしては、ベッドが大人用の大きさだ。鉄道が不通になる前までは、標高が高いために、具合が悪くなった人が休めるようにしてあったのだろうか。Tを下のベッドに休ませ、私はさっそく明日のムーラを調達しに、ガウチョの小屋に行くことにした。 家を出たところで、アントニオが子供たちと遊んでいた。この人は鉄道が再び開通するまでは、毎日こうして子供たちと遊んでいられるのだろうか。どこに行くのだ、という問いに、ガウチョの小屋へ行くというと、アントニオは手を横に振って「シエステ」といった。シエステとは午後の昼寝のことだ。この国では、昼食を摂ったあと、夕方まで昼寝をし、夕方からまた仕事をするという優雅な習慣がある。アルゼンチン航空の東京事務所に電話をした時も、「ただいま職員はシエステ中でございます」と留守番の女性が応答し、なんという会社なのだろうかと呆れた記憶が甦ってきた。彼らにとって食事や毎日の習慣は、どこへ行ってもそう簡単に変えられるものではないものらしい。 シエステの最中に、ガウチョの小屋を訪ねて行っても仕方がない。昼飯にはきっとしこたまワインを飲んでいるのだろうから、まともに話になるとも思えない。夕方まで待つほかは無い。部屋の中でボーっとしていると、アントニオの奥さんがマテ茶を淹れてくれた。マテ茶とは日本の煎茶と紅茶の中間のようなお茶だ。リーフのお茶を大きなマグカップに入れ、熱湯を注ぐ。そこに砂糖を入れ、先に茶漉しのついた金属のストローでかき回しながら飲む。マテ茶を飲んでいると、アントニオの奥さんが何かを言いたそうに私を見ているのに気がついた。お互いに言葉が十分通じないので、目があったときに相手のサインを探るのだ。「クアント・ドラーレス?」彼女は私のはいているジャージを指差して訊いてきた。この薄汚れたジャージを『何ドル』で売ってくれるのかというのだ。 自分が今はいているものをいくらで売るか、と問われるようなことが初めてだったので、私はたじろいだ。こんなものに値段がつくなどとも考えた事も無かった。しかし、彼女にとってはどうしても欲しいものに見えてしまったようだ。実はそのジャージは妻がはいていた女性もので、色使いが多少普通のものとは違っていた。明るいブルーに地に、膝とくるぶしの一部に鮮やかな黄色が配してある。そんな色使いが私も気に入って、妻から譲ってもらったのだ。アントニオの奥さんもそんなところが気に入ってしまったようだった。私は少し考えた末『シンコ・ドラーレス(5ドル)』と答えた。 このアントニオ一家はアルゼンチン国鉄の公務員である。鉄道は不通になってしまったものの、廃線ではなくまた復活させる予定があるために、身分や給料が保証されたままここに住んでいる。しかし、鉄道は動いていないから、当然仕事は無い。そこで、アコンカグアにやってくる登山隊を安く自宅や倉庫に泊めて、ひと稼ぎしている。 80年代のアルゼンチンの通貨単位は、猛烈なインフレに伴ってめまぐるしく変わっていた。何度となくデノミ{通貨単位の切り上げ}がされ、それでも数ヵ月後には、パン1個を買うのに何十枚もの紙幣を払わなくてはならないほどだった。私たちも計画段階では『ペソ』が通貨とされていたが、出発直前には『アウストラル』という通貨に替っていた。その『アウストラル』もすでに登場当時から比べて、0が3個ほど増えてしまったそうだ。アントニオが登山隊相手にひと稼ぎするのは、何よりも『ドル』が欲しいからだ。数ヵ月後にはただの紙切れに成り下がる恐れのある自国の通貨よりも、価値の安定した『世界通貨』が欲しいのだ。一般の市民にはあまり手に入らない『ドル』を持った登山隊が、この『インカの橋』にはたくさんやってくる。これを見逃す手はない。 そこで、アントニオは自宅の部屋や、倉庫に登山客を泊めては『ドル』を稼ぐ。と同時に、世界各国からやってくる登山隊の不要になった装備品やさまざまなものを安く買い上げては、また売っているようだった。ヒマラヤでもカトマンドゥにはそんな店が何軒もあるという。登山隊にとっては、再び運賃を払って持ち帰るよりも、その場で安くとも売ってしまった方が楽なのだ。そして、そのアントニオの『商売』は時として、やってくる人たちの個人的な持ち物にまで及んでしまう事がある。電話もない山の中で暮らしているところに、世界各国から見たこともないものや、アルゼンチンでは手に入らないものを持った人がやってくる。そこで「クアント?{いくら?}」という商談が始まるのだ。 『5ドル』という私の答えに、アントニオの奥さんは小躍りをした。ちょっと安すぎたか…、と私は後悔した。5ドルといえば、わずか5~600円に過ぎない。このジャージの元の値段から考えれば10分の1に近い。でも、散々使った上に、昨日はこれをはいて一日中裸馬に揺られていた。汚れている上に、生地が延びてそんなに長持ちはしないだろう…、と思ったうえでの5ドルだったのだ。でも、言い値で小躍りされると、『日本人は値段の交渉が甘い』という定評を思い出してしまった。アントニオの奥さんは、奥の部屋からさっそく5ドルをいそいそと持ってきた。もうこうなっては脱いで渡すしかない。彼女は何か叫びながら、薄汚れた私が妻から分捕った女物のジャージを持って、別の部屋に飛んでいった。 日も暮れかかった頃、明日のムーラを調達しにガウチョの小屋へ出向いた。明日はもうプラサ・デ・ムーラスまで戻り、ロスした日程を取戻さなくてはならない。ガウチョは私のことを覚えていたので、話はうまく進むかと思ったが、明日は日曜日だからだめだという。なんという事だ。一瞬、頭に血が上るのがわかった。しかし、交渉の余地があるとは、今までの経験からして思えなかった。『マンニャーナ』で2日も待ちぼうけを食わされ、ついさっきはシエステで夕方まで待たされたのだ。この人たちが、日曜日に仕事をするとは思えない。俺はなんとしてもベースキャンプに明日中に戻らなくてはならないのだ、と言ってみたところで自分のペースを変えるとは思えない。しつこく言えば、『じゃぁ、歩いていけ』というぐらいは平気な人たちなのだ。 仕方なく、あさっての朝に出発する事にする。その代わり昨日で懲りたので、ふかふかの鞍と聞き分けのいいムーラを用意してくれるよう、身振り手振りで説明する。ガウチョは『わかった』というしぐさをして、一頭の大きなムーラをつれてきた。そして小屋の中から、立派な鞍を持ち出し、そのムーラに乗せた。これでいいか、と私に向かって指で合図をして見せた。そうだ、それでいい。あとは、あさっての朝だってことを忘れるな。 またしても無為な一日が出来てしまった。明日の日曜日は、どうやって過ごしたらいいのだろう。ベッドに横になって考えていると、アントニオの子供たちがちらりちらりと部屋を覗きにやってきた。普段自分たちが寝ている部屋に、知らないひとが寝ているので気になるのだろう。最初は眼が合うと逃げていってしまったが、だんだん慣れると部屋に入って来るようになった。まだ3歳と1歳ぐらいだから、お互いに言葉で会話は成り立たない。たまたま私が耳にウォークマンのイヤホンをしているのを見つけて、それはなんだというように引っ張るので、彼女たちの耳にひとつずつ当てて音を聞かせてあげた。 翌朝、子供たちにウォークマンを聞かせたことが大失敗になった。子供たちはウォークマンのことを、さっそく母親に話したらしい。アントニオの奥さんは朝食が終わるやいなや、「私にも聞かせて欲しい」と部屋にやってきた。昨日5ドルで私から買ったばかりのジャージを、もうはいている。今度のお目当てはカセットテープとほぼ同じ大きさの機械で、ポケットに入れて仕事をしながらでも聞いていられる…。彼女はまたしてもこれが気に入ってしまった。そして、また「クアント?」攻撃が始まってしまったのだった。
オルコネス谷の夜が明けた。冷たく乾燥した空気が、澱のように谷底に沈んでいる。アコンカグアの冠雪がオレンジ色に輝き、まだ暗い谷に大きな月が現れたように見える。朝日はやがて谷の西側の山を捕らえ、ゆっくりと山肌を温めながら下りてくる。光が冷気を吹き飛ばすように谷底を照らすと、オルコネス谷の夏の一日が始まる。
見渡す限りの岩、土、そして砂の世界だ。ここには緑という色がない。茶色の土、灰色の岩、紺色の空、そしてわずかに白い雪。木はおろか草にいたってもここには一本もない。乾燥した気候がそうさせるのか、4000m近い標高に耐えられる草木がここにはないのか。緑したたる国に育った私にとって、ここは偽りない「異国」である。 新年になった。ガウチョは来ない。Tは相変らず寝たままだ。いまだに用を済ますのにも、介添えがないと倒れてしまう。昨日来なかったガウチョが、元旦の今日に来るとは思えない。1986年の元旦は、落胆の一日になった。このまま無為な一日を過ごしていても仕方がない。HとO、Sの3人はベースキャンプに上がり、C1予定地まで荷揚げをする。今の状態では、Tが一人でムーラに乗って「インカの橋」まで下りるのは無理だ。誰かが付き添わなくてはならない。それは私の役目になるだろう。戻ってくるまでの間はHに行動を任せて、なるべく上部までキャンプを進めておいてもらわなくてはならない。 1月2日、朝早くムーラが荷を積んで登っていった。今日はこのムーラに乗せてなんとしてもTを「インカの橋」まで下ろさなくてはならない。Tの具合は相変らず。眼は覚めるものの一人で歩くこともままならない。 ガウチョがムーラを連れて下ってきた。こちらから止めるまでもなく、ガウチョは壊れて土台だけになっている小屋の跡にやってきた。どうやら、3日前の話を聞いて仲間が迎えに来たようだ。Tを起こし、鞍のついたムーラに乗せる。平衡感覚を失って落馬しないように、Tをあぶみと鞍にザイルで縛り付ける。縛り付けている間に、Tはもうフラフラしだして前に倒れてしまう。そこで、体を縛りつけたザイルで私が後ろから確保し、倒れそうになった時に引っ張ることにする。ところが、ガウチョは「インカの橋」まで下ろすのは一人だけだと思っていたようで、鞍のついたムーラは1頭だけしか連れていない。私は毛布を何枚か重ねただけのムーラに乗り、「インカの橋」まで下ることになった。ガウチョが先頭になり、Tが真ん中、最後を私の乗ったムーラという隊列で出発する。 ムーラの背中はよく揺れる。毛布があるとはいっても、これはほとんど裸馬だ。不安定この上ない。「インカの橋」に着くまでに、Tより先に私の方が落馬してしまうかもしれない。ガウチョを止め、せめてあぶみだけでも付けてくれるように頼む。ムーラを繋ぐロープを器用に結び、ガウチョはあぶみというにはお粗末な足を掛ける場所を作ってくれた。お粗末とはいえ、足をブラブラさせておくよりはまだマシだ。 カンカン照りのオルコネス谷を、3頭仕立ての隊列が下りて行く。砂漠のような河原の土が、ムーラの一足ごとに舞い上がる。3頭目の私は、常に土埃の中だ。 暑い。内股が擦れて痛くなってきた。 Tはムーラの揺れに身を任せている。時々意識が遠のくのか、ふらりと前に倒れ掛かる。その度にザイルで後ろに引き上げる。後ろには倒れず前に倒れるのは、後ろに倒れたら危険だと認識できているからなのだろう。 ムーラはゆっくりと谷を下る。長い…。時間の経過が遅い。途中の休みでもTはムーラから下りない。ムーラに乗ったまま、前に突っ伏している。私はガニ股になりそうだ。 日が傾き、お花畑の中を3頭の長い陰がゆっくりと進んで行く。「インカの橋」まで明るいうちに辿り着けるのだろうか。足が痛い。 日がとっぷりと暮れた夜8時、「インカの橋」に着いた。1軒だけのレストハウスに転がり込み、部屋を取ってTを休ませる。Tは一向に回復しない。高山病であれば、もう回復していいはずだ。これだけ時間をかけて標高2000mまで下りてきたのだから。 翌朝、レストハウスの主人に事情を説明すると、しばらくしてある男が部屋にやってきた。アントニオというその男は、今は不通になっているアルゼンチンとチリを結ぶ鉄道の看護士なのだという。ヒョロっとした長身にひげを貯えたラテン系の男だ。アントニオはTの熱を測り、胸に聴診器を当て、一通りの診察を済ませると説明を始めた。「ガルガンダ…」と喉に手を当てる。ガルガンダは喉のことのようだ。そして体温計を見せ、熱が高いというしぐさをする。私は高山病だったということを、英語の単語を交えて説明する。アントニオがそれはもうない、と手を振りながら応答する。そして、「アンティビオティコ…」といって、カプセルの薬を箱の中から取り出した。Anti-Biotic、つまり抗生物質だ。 彼の診察では、高山病はもう回復しているが、ほかの細菌性の病気にかかったということのようだ。ヒマラヤの遠征隊でも、激しい乾燥のためにベースキャンプでインフルエンザが流行し、隊の行動に支障が出ることがあった、という記録を読んだことがある。Tが高い熱を出したのは高山病のためではなく、何かしらインフルエンザのような流行性の病気にもかかっていたからなのだろうか。では平衡感覚が戻らないのはなぜなのか。アントニオはそれについては良く寝ろ、というしぐさをするだけだった。 とりあえず、どんな状態であっても、ここにいる分には大事には至らないだろう。アントニオに礼を述べて、診察代を払おうとすると、「要らない」という。その代わり、自分の家に泊ってくれないか、という。このレストハウスは1泊当たり15米ドルだが、5米ドルでいいから…、というのだった。こちらとしても、安いにこしたことはないし、アントニオがTのそばについていてくれるのなら、私が山に戻ることができる。
1985年の暮れ、私たちは5人で日本を出発した。クリスマスの混雑を避けるように、12月22日の便でまずロサンジェルスに入った。すぐにアルゼンチン航空のブエノスアイレス行きに乗りかえる予定だったが、乗員がストライキを起こしたために急遽ロスで一泊することになった。1日遅れの便でブエノスアイレスに着いたのが24日。さらに国内線でメンドーサまで飛び、登山許可や食糧の調達を済ませ、バスで「インカの橋」に着いたのは27日になっていた。
「インカの橋」でガウチョとムーラを雇い、出発したのは28日の朝。天気は当たり前のように晴れていた。渡渉に難儀はしたものの、夕方にはコンフレンシアに着き、ガウチョやムーラと共に一泊。翌29日は4300mのプラサ・デ・ムーラスまで入り、ベースキャンプを設営した。 その29日の晩、最年長のT(42歳)の体調に、明らかな高山病の症状が現われた。4300mという標高は日本国内では経験できない高度なので、高山病の症状が出ることは何の不思議もない。高山病はまず息切れから始まる。空気中の酸素量が平地に比べて、この4300mでは約2/3になるからだ。続いてひどい頭痛や、場合によっては吐き気に襲われる。ここまでは、その高度に順化できていなければ、ほぼ全員に現れる症状だ。今回も最年少のO(18歳)を除いて、全員に頭痛がある。もっともOの場合は、彼の性格からして見栄を張っている可能性があるが。 人間の身体は、酸素の薄い状態でもその機能を保つために、血液の成分を増やしたりしてある程度は順応できるようになっているらしい。だから標高の高い場所に登るためには、少しずつ身体をその標高に順応させなくてはならない。このベースキャンプまでムーラに乗らずに歩いたのは、そのためだ。これから上に登るためにも、ある程度登っては下り、さらに登ってはまた下る、という高度順化を荷揚げを兼ねてしていく予定になっている。私は以前、アラスカで6000m以上を経験したので、この高度でどんな症状が出るかをメンバーの中では唯一、おおよそ知っていた。頭痛や吐き気はつらいものだが、とにかく耐えるしかない。 Tは、テントの中で座っていることもできなくなっていた。食事も採れない。42歳という年齢からすれば、4000mを初めて越えるのは大変なことなのだろう。とにかく一晩ここで体を慣らさないことには、次に進むことができない。一晩寝て、その順応具合を見て、次を判断するしかない。 翌朝、Tの容体は、さらに深刻になっていた。寝袋から出てこない。起こそうとしたが、起こしてもすぐに意識がなくなってしまう。どうにか寝袋からは出ることができても、平衡感覚が失われていて、無意識のうちに倒れてしまう。これは危ない。緊急事態だ。酸素が充分に供給されないために、脳がむくんでしまう「脳浮腫」を起こしている可能性がある。このままこの状態が続けば、死に至る可能性もある。酸素だ。携帯用の酸素ボンベから酸素を吸わせるのだ。こんな事態に備えて非常用の酸素ボンベを持ってきていたのだが、こんな低い高度で使うことになるとは予想しなかった。Tを寝袋に寝かせ、酸素マスクを顔に固定してボンベを開く。ところが、Tは意識が遠のくと、すぐに酸素マスクをはずしてしまう。無理矢理マスクを口にあてがっても、手で払い除けようとする。完全に意識を失ってしまえば、こんな事はないはずだ。Tの意識はまだ完全に切れてはいない。切れてしまうと、厄介だ。動かすのが容易でなくなる。 人間は意識がある状態ならば、おぶったり担いだりしてもそう重くはない。仮に体重が60kgだとしても、荷物を60kg担ぐよりも楽に運ぶことができる。それは体を密着させたり、重心を移動させたりすることができるからなのだろう。ところが意識がなくなった途端に、ぐにゃぐにゃの60kgの荷物と同じになってしまう。 私たちは酸素ボンベよりも、とりあえず意識があるうちに、少しでも酸素の濃い、標高が低い地点へTを下ろすことにした。このベースキャンプのあるプラサ・デ・ムーラスは、オルコネス谷から標高差で500mほどの台地上にある。台地の登り口には、雪崩で吹き飛ばされた小屋の跡があった。500m下がれば、富士山とほぼ同じ標高になる。Tもトレーニングで富士山頂にビバークをしたことがあるので、その標高なら回復するかもしれない。 むりやりTを起こして出発する。Tは歩けないので、交代で負ぶっていくことにする。Oと唯一の女性メンバーであるSを先に走らせ、テントを設営しておいてもらう。私ともう一人のメンバーHが10分交代で負ぶって歩く。半分ほど降りたあたりで、Tが自分で歩くと言い出した。まだ平衡感覚が充分に戻っていないので、前をHが歩き、その肩を両手でTがつかみながら歩き、転落しないように私が後ろからザイルで確保しながら下ってゆく。 つづら折れの急坂を、下から荷物を載せたムーラが登ってくる。荷物が重いのか、立ち往生しているムーラがいる。そのムーラをガウチョが「ムーラ!、ムーラ!!」と怒鳴りながら鞭で打つ。鞭で打たれたムーラが、哀れな声で鳴く。それでも動かないムーラを、さらに次の鞭が襲う。しかたなく、また歩き出すムーラ…。 こんな光景にどこかで出会った記憶がある、と私は思った。そうだ、丹沢だ。大倉尾根だ。搭ノ岳まで一気に標高差1200mほどを登る赤土の尾根で、高校1年生の私達はこのムーラのように、言葉の鞭を浴びていた。40kgもの荷物を背負わせ、まだひ弱な1年生をふるいにかける新人訓練のひとつだった。これでついてこられない新人はやめなさい、という意味を含んだ過酷な山行だった。動けなくなった者に、容赦ない言葉の鞭が降りかかる。それは、このムーラ達と同じような光景だったに違いない。 普通に歩けば30分ほどのルートを、2時間かけて小屋の跡に着く。先に下っていたOとSが、すでにテントを張り終えている。Tの顔がひどくむくんでいる。着くなりすぐにテントの中で、寝袋にくるまり寝てしまった。この状態では、今日はこれ以上動けないだろう。ここで回復しないとなると、さらに下に降ろさなくてはならない。さらに下といっても、ここから下流はあの広くて緩やかなオルコネス谷だ。ベースキャンプからこの小屋跡までのように、少し歩いただけで標高が下がるという訳にはいかない。もう一晩、この地点で様子を見た上で具合が回復しないようならば、ムーラに乗せて「インカの橋」まで下ろすほかはない。ただし、ムーラに乗っても平衡感覚がなければ落馬してしまう。さて、どうするか・・・。 たくさんのムーラを綱で引き連れて、ガウチョ達が下って行く。いつもなら下山する隊の荷物を積んでいるはずのムーラは、空身のままだ。そうか、今日は12月30日だ。彼らも新年を迎えるために、「インカの橋」に帰ろうとしているのだ。これはまずい日に当たってしまった。今のうちにガウチョを捕まえて、いざという時の手配をしておかなくてはならない。 ひとりのガウチョを止め、身振り手振りで事情を伝える。ガウチョは怪訝そうな顔をしている。明日の容体次第で、すぐにでも「インカの橋」までTを下ろさなくてはならない。こちらは必死なのだ。解ったか、解らないのか。ガウチョが「…マンニャーナ、マンニャーナ…」という。マンニャーナは「明日」という意味だ。そうだ、明日だ、来てくれよ、頼むぞ・・・。一抹の不安を感じながら、ガウチョが下っていく姿を見送る。わかっているのだろうか・・・。 翌12月31日。Tの具合は良くならない。良くならないどころか、発熱している。なぜ熱が出るのかは解らないが、回復しない以上は下に降ろすしかない。昨日のガウチョが来てくれることを祈る。ところが、昨日のガウチョどころか、ベースキャンプからも、ムーラを連れたガウチョ達が降りてこない。しまった…。もう全部降りてしまったのかもしれない。Oに無線を持たせ、ムーラとガウチョがいるのなら、引っ張ってこい、とベースキャンプへ登らせる。ところがOは「もうムーラもガウチョもいません」と無線で伝えてきた。万事休す。昨日のガウチョが、ムーラを連れて迎えに来てくれる事を、祈るしかない。あの「マンニャーナ」を信じるほかはない。
オルコネス谷を、上流に向かってムーラを走らせる。広い谷の中には、いくつかの踏み跡ができている。所々にムーラの糞が転がっているので、その踏み跡に入りさえすれば、ムーラはにおいにしたがって前に進んで行く。コンフレンシアの手前には1個所、濁流の渡渉がある。今回は水が少なく、ムーラも怖がることもなく渡りきることができた。1週間前の荷揚げの時には流量が思いのほか多く、渡るのに難儀したことがウソのようだ。
荷揚げの時は、この渡渉が大変だった。予想外に流量が多く、ザイルで確保しても渡るのは相当危険に思われた。今回のパーティは小柄な者が多いので、渡渉には不利だ。流れの強さにもよりけりだが、日本の沢のように水が澄んでいれば、ひざから腰までの深さでも渡れないことはない。しかしこの氷河からほど近い場所では、水は泥水のように濁っていて、深さを推し計ることができない。パーティの中で一番身長のある私がトップで渡ろうと試みたが、水が冷たい上にひざ上までの急流に渡りきれない。途方に暮れているところに、すでにコンフレンシアに着いていたガウチョが、ムーラを連れて迎えに来てくれた。きっと渡れないことを見越していたのだろう。ところが、ムーラの腹まで水が付くほどの深さにムーラも怖がってしまい、人を乗せたまま急流の真ん中で動かなくなってしまった。こうなるとムーラ自身も恐いのだろうが、乗っている人間も更に恐くなる。対岸からガウチョが手綱を引き、こちらがわからはムーラの尻をめがけて石を投げる。それでもムーラは動かない。業を煮やしたガウチョが、特大の鞭を取り出して水に入る。幅10cm、長さ1mはあろうかという平べったい鞭でムーラの尻を思い切りたたくと、ムーラは電気が走ったように身体を一瞬震わせ、意を決したようにようやく足を前に動かすのだった。 その時に比べれば、今回は拍子抜けするほど簡単に渡渉を終えた。コンフレンシアで待ち受けていたガウチョ達は、私を見るとムーラから降りるな、というしぐさをした。そして指で上流を指し、早く行けと指図するのだった。それは、おまえのペースは遅すぎるから休まずに先に行け、という意味だということはすぐに理解できた。こちらとしても、細い踏み跡を前のムーラの尻を見ながら、砂埃にまみれて付いていくよりも、勝手気ままなペースでムーラを走らせた方が楽だ。ムーラは歩きながらでも平気で排泄をする。前を歩いているムーラの尻尾が急に持ち上がったと思うと、その下に隠れていた肛門が現われ、ムリムリッと開いて糞がボロボロ出てくる。当然、生の匂いもかがされる。そんな場面をまた見せられるより、勝手に走る方がいいに決まっているからだ。 コンフレンシアから先、オルコネス谷はガラガラの岩だらけの河原になる。その中を車道くらいの広い踏み跡がまっすぐに上流に向かっている。ここでムーラを思いっきり走らせてみることにした。ムーラの腹を思い切りかかとで蹴る。ムーラは早足になる。この早足は揺れが激しい。さらに何度も蹴り続けると、ムーラは走り出す。しっかりとあぶみに体重をかけ、競馬の騎手のように腰を浮かせる。片手で手綱を握り、もう一方の手で鞍の突起を握りしめて体を支える。そして走る、走る、走る…。回りの景色と共に、西部劇のカウボーイになったような気分になる。爽快だ。 手綱を引くと、ムーラは走るのを止めた。今日のムーラは本当に聞き分けがいい。山に登りに来たはずなのに、こんなことまでができるとは予想だにしていなかった。そうだ、これは全てが予定外の行動なのだ。本来の行動予定から、自分ともうひとり、「インカの橋」で休んでいるTだけが、予定外の行動をせざるを得なくなったのだ。行動は予定外ではあったが、起きたことはあらかじめ想定していたことではあった。そして、その対処も想定通りにしただけのことだったのだが…。
雑言のバックナンバーはまだまださわりの部分ですが、ちょっと趣向を変えて、「アンデスにて」の連載を始めました。1985年に出かけたアルゼンチン・アコンカグアの登山と紀行を2002年になって書いたものです。
長いので10回ほどに分けて掲載します。カテゴリの「アンデスにて」からお入りください。 コメントもいただければ幸いです。
広いオルコネス谷の中を、濁流がうねるように流れている。水が濁っているのは、上流に氷河があるためだ。ここから少し溯れば、アコンカグアの南壁から流れ出る氷河の舌端が望めるはずである。流れから離れた台地には、キンギョソウのような花が一面に咲いている。南半球の1月は、夏真っ盛りなのだ。その見渡す限りのお花畑の中を、私はムーラに乗ってベースキャンプに戻ろうとしていた。
ムーラとは馬である。しかし、鳴き声はロバそのものという代物だ。明け方になると決まって「ヒーホーヒーホーヒイー」と締め殺されんばかりの声でなく。馬とロバの混血なのだが、鳴き声さえ聞かなければ、どこからみても馬でしかない。アコンカグアのアプローチではそのムーラを数頭調達し、一隊あたり数百kgという荷物をベースキャンプまで運ばせる。「インカの橋」からベースキャンプまで約40km。途中、コンフレンシアという名の東部オルコネス氷河からの流れが合わさる地点で一泊し、砂漠のような木の生えていない、荒涼とした谷を溯ってゆく。 通常、ムーラに荷物は運ばせても、人間は歩いて溯ってゆく。ベースキャンプは4300mの標高になるので、ゆっくりと体を慣らしながら登らなくては高山病になるからだ。しかし、今日は一気にベースキャンプまで入らなくてはならないので、ムーラに跨っている。一週間前にもこの谷を歩いているので、ポイントになる場所は分かっている。2~3個所、腰までの濁流を渡渉しなくてはならないのだが、ムーラに乗って渡ればなんとかなるだろう。隊の荷揚げの時は、ムーラが渡渉を渋って川の真ん中で立ち往生する場面もあった。今回はあの時のようなムーラとは違う、言うことを良く聞くというムーラを借りてきた。いざとなれば、同行してくれているガウチョ(馬使い)がムチを入れるはずだ。 同行するガウチョは、空身のムーラを10頭ほどロープで繋いで連れていた。しかし、今ははるか前に進んでいってしまい、見えなくなった。ムーラに乗りつかれた私は、ムーラから降りて休むことにした。広い谷には木が生えていないため、日を遮るものが全くない。唯一、ムーラが日陰を作ってくれるだけだった。ムーラの手綱を岩に巻き付け、ムーラを日よけにして一服する。真夏とはいっても、ここはすでに2500mを越えているので、暑いことはない。ただ、照り付ける日差しは平地のそれとは全く違い、皮膚が痛くなるような強さがある。 このアンデスは、日本から見ればちょうど地球の裏側になる。ここが昼間ということは、日本はちょうど夜中ということになる。ぎらぎらと照り付ける太陽は、あと数時間のちには日本も照らすはずだ。これだけ自分の国から遠く離れると、月と太陽だけはいつも見ているものと同じなのだ、ということが何か信じ難いことのように思えてしまう。ふと、残してきた家族のことが頭をよぎる。家族とはいっても、私を除けばあとは妻と子の二人だけ。2ヶ月前に生まれたばかりの長女を連れて、妻は実家に帰っている。まだ昼夜を問わずにおっぱいを飲んでいる長女は、夜中の今も、また泣いているかもしれない。 長女が生まれることになって、アコンカグアに行くべきか止めるべきか、かなり迷った。3年前から計画していたとはいえ、生まれたばかりの乳飲み子を置いてまで行くべきなのかどうか。生命に危険が及ぶようなルートではないとはいえ、それを説明してもあまりある7000m近い標高である。登山を経験したことのない妻にとって、それが理解できることなのかどうか。私は、相当迷った上で相談した。妻の答えは、あっさりとしていた。「行ってきたら? あとに引きずるようになるのは困るから」。 さらに出発1ヶ月前になって、勤めていた会社が休みを取らせないと言い出した。計画当初は休んでいいといっていたにもかかわらず、土壇場になってだめといわれた私に、残された道はひとつしかなかった。あっさりと仕事を辞めたことも、妻はまた飲み込んでくれるだろう。どうせ長く居るつもりもない会社だったのだから…、と高を括ったのが間違いのもとだったのか、妻の仕事を辞めたことへの答えは、あっさりとしたものではなかった。 こうして私は、28歳子持ちの失業者となって、地球の裏側までやってきた。見渡す限り岩と土だけの山、一面のお花畑、素知らぬ顔で草を食むムーラ。日本に帰ったら、まずは仕事探しをしなくてはならない。蓄えなどがある訳もなく、帰ってから渡すといわれた退職金があるとはいえ、恐らく1ヶ月暮らすに足りるかどうかの額でしかない。漠然とした不安が、常に頭の隅に張り付いている。 お花畑のはるか彼方から、ガウチョがムーラに乗って現われた。 日本に帰っても仕事はない、金もないということは、何も縛られることはないということだ。何をしようが、自分で責任を取れる範囲で家族が食べるに困ることがなければ、それは自由だということだ。すでに会社という人間社会に、この数年はもう辟易としている。会社という仕事場ではなく、自分の仕事を作るということも可能な訳だ。でも今の自分には、何ができることがない。 ガウチョがこちらに向かってムーラを走らせてくる。 今の私の身の振り方が自由であるということは、センターラインに導かれるように、舗装された道路の上を走るのではなく、これからはあのガウチョのように野原に目標を決め、自分で道を定めて走れるということだ。今の自分には、何もない。何もないということは、逆に言えば何でもこれから作れるということだ。自分は何をしたいのか、そして何ができるのか。そこからスタートすればいい。 どうやら、ガウチョは私をめがけて走っているようだ。 頭の隅に張り付いていた不安がやわらぎ、逆に期待感が広がってきた。何もない、自分を縛るものがないということは、素晴らしいことではないか。 ガウチョが、お花畑で一服している私のもとに着いた。今日一緒に「インカの橋」を出発したガウチョではない。すでに一週間以上このオルコネス谷を行き来しているので、ガウチョの顔も分かるようになってきた。早口のスペイン語で何かまくしたてている。何を言っているのか、さっぱりわからない。「……コンフレンシア…」と上流に向けて指を差している。そうか、先に行ってしまった連れのガウチョ達が、コンフレンシアで待っているということか。途中でハポネ(日本人)を見かけたら、早く来るように伝えてくれ、と「インカの橋」に下ろうとしていた仲間に、連れのガウチョ達が頼んだに違いない。のんびりしている場合ではない。今日中に4300mのプラサ・デ・ムーラスまで行かなくてはならないのだ。手綱を解いてムーラに乗る。心配そうな顔でガウチョが見ている。大丈夫だ。私はわずかとはいえ、丸2日もムーラに乗って、このオルコネス谷を走っているのだから。
プエンテ・デル・インカとは、スペイン語で「インカの橋」という意味になる。アコンカグア(6959m)から流れてくる濁流が大きな岩盤を穿ち、まるで橋のようになっていることからついた地名らしい。その昔、インカ帝国の時代にその勢力は、このチリとの国境に近いアンデス最南端にまで及んでいたのだろうか。
その「インカの橋」から連なる断崖の中腹に、廃虚と化した温泉があり、透明な湯が湧き出て石造りの大きな浴場を満たしている。屋根は抜け落ち、壁は湯垢としみ出した錆のような鉱物質で茶色に染まり、浴槽の半分は砂で埋もれている。インカの人たちが作った風呂だ、といわれればそのまま信じてしまいそうな風情だ。しかし残念ながら、わずか50年ほど前のものである。10年ほど前までは、この先の峠を越える鉄道がチリまで繋がっていたので、この温泉も旅に疲れた人で賑っていたのかもしれない。チリの政情が不安定になり、鉄道が不通になると同時に、この温泉も使われなくなったのだろう。そして、パンパと呼ばれる乾燥地帯の気候が、わずか10年でこの温泉を廃虚にしたのだ。 プールのような大きな浴場に、湯気が立っている。風呂というには少しぬるい。1週間風呂に入っていなかった私は、無性に湯に浸かりたくなった。川の向こうをチリに抜ける道路が走り、大きなトレーラーやバスが走っていく。着ているものを脱ぎ捨てて、風呂に飛び込む。裸になっても川の向こうからなら、見られたって構いやしない。浅い湯に浸かるために、砂の上に大の字になる。抜け落ちた天井からは、抜けるような青い空が望める。廃虚の風呂も、悪くはない。はるか谷底には、氷河の雪解け水が激流となって流れている。 そういえば、昨日はあの冷たい水をムーラに乗って渡り、この「インカの橋」に戻ってきたのだった。 それは全く予定外の行動だった。行動計画では、1月4日の今日はもう5100mのC1に荷揚げを終え、5600mくらいまで高度順化をしているはずだった。明日、あの言うことを聞かないムーラにまたがり、4300mのベースキャンプまで戻ったとしても、6日も日程をロスしたことになる。17日までの登山日程の中で、予定通りにアコンカグアの頂上を踏むのは、かなり無理をしなくてはならない。ノーマルルートだから、ザイルを固定するようなルート工作は必要ない。問題は、高度順化が間に合うかどうか、なのだ。すでにベースキャンプでは、私にも軽い高山病の症状が現れていた。4300mに2日間でも留まることができていれば、そこを通過してC1まで駆け上がって順化し、ほかのメンバーに少しでも追いつくことは可能だ。ところがわずかひと晩で、いったん3800mまで降り、さらにこの「インカの橋」まで戻らざるを得ない事態が起きてしまったのだった。 突然、浴場の柱の間から人が現れた。だれもいない廃虚のような場所に、しかも裸で湯に浸かっていただけに、飛び上がるほど驚く。相手もその気配を察して、申し訳ないというポーズを取りながら風呂に入ってきた。オーストリアから来たというその小柄な人と、期せずして初対面の裸のお付き合いをすることになってしまった。袖触れ合うも他生の縁とはいうけれど、触れ合う袖さえない場合はどうなのだろうか。「あなたが入っているのを見て私も入りに来たが、なかなかエキゾチックなところですね」と彼は言う。ひどいドイツなまりの英語だ。オーストリアなどのヨーロッパでも温泉はあり、それはプールのように広く、老若男女がみんなで入るのだそうだ。そうか、だから彼はちゃんとパンツをはいているのか。私が「日本にはどの町にもパブリック・バス(公衆浴場)というものがあり、風呂にはみんな素っ裸で入るものなのだ」というと、彼はとても驚いた顔をするのであった。
10月を迎えて、北海道から南瓜をはじめ玉ねぎ、にんじんなど土もの野菜が届くようになりました。今年は、というよりやっぱり今年も夏の天気は不順で、梅雨のないはずの北海道で梅雨のような雨が降り続き、日照不足で収穫量が大幅に減ってしまったようです。
九州などの暖かな地方では一年中畑作りができるのに比べ、北海道では畑ができるのは半年しかなく、ほとんどの畑が一年に一度しか収穫のない年一作です。それだけに天候不順で収穫量が減ると、生活に大変なダメージを受けてしまいます。広大な畑を大型トラクターを駆使して耕作する北海道の農業は、風景としては最高ですが、いつも大変厳しい現実と闘っているのです。 北海道富良野市の麓郷という地区に、阪井永典さんという私と同世代の生産者がいます。先週のお知らせの野菜欄に乗せた写真で、二人並んで映っている生産者の右側の人です。私がこの仕事に足を突っ込んだ23年前から、ずっといい野菜を出荷し続けてくれている信頼のおける農家です。一時東京に出てボクサーを目指していたことがあり、その後は私たちのような八百屋のグループに出会ってから、郷里の富良野に帰って畑を継いだ、という経緯のある人です。 皆さんは富良野という地名をきいて、どんなイメージが湧くでしょうか。ラベンダーの紫の花、大雪山系の雄大な山、そして「北の国から」の舞台としての富良野でしょうか。私自身は富良野に行ったことがなく、しかもテレビドラマは昔も今も全く見ませんので、この阪井さんから野菜と共に届くメッセージから想像する畑の風景しかありません。 一番印象的だった阪井さんからのメッセージは、「北の国から」を書いた脚本家が主宰する「富良野塾」という演劇塾についての一文でした。「あなたは文明に/麻痺していませんか 石油と水は/どっちが大事ですか ・・・」という富良野塾の起草文を彼なりのパロディに仕立て直し、奇しくも同じ富良野の麓郷を舞台として繰り広げられるTVドラマを、自らの生活ドラマと対比させたものでした。すでにそれを読んだ時から20年もの時間が過ぎ、もう詳しい内容はおぼろですが・・・。 脚本家は物語を筆一本から紡ぎ出し、形のないイメージを媒体に乗せて数千万の人にばらまくことができます。農業は見渡す限りの広い畑に種をまき、額の汗をぬぐいながら土を寄せ草を引き、日差しを乞い、雨を呪い、虫と闘ってようやく一年の恵みを得ることができます。どちらが正しいということではありません。ただ、両者が同じ舞台で同時に向き合っていることが、父祖が開墾した畑を継いだ阪井さんのメッセージに苦悩となって滲みだしていて、とても印象的だったのです。 その苦悩をここに書き表わせるほど、私は阪井さんの心情を理解できているとは思いません。ただ、信州に17年住んで、その一部がおぼろげながら見えるようになってきたような気がします。それは表現という虚の世界と農業という実の世界の差もさることながら、土地に縛られるものとそうでないものの差、だったのではないか、と。 広大な畑と雄大な山を前にして、阪井さんと脚本家では、ここで生き続けることを宿命づけられているものとそうでないものとして、風景から受け取る心象が全く異なっていたのでしょう。得てして美しい風景には目に見えない苦難が刻まれているものです。過去の自分の物言いを振り返ると、出てくるのは反省ばかり。気をつけなければならないと思います。
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設定を直しましたので、どうぞコメントをお寄せください。 Oh塚様、お待ちしております。
夜中にシカが鳴くようになって、秋の深まりをふとんの中でも感じられるようになってきた。シカは一年中家の周りを跳ねまわっていて、危険を感じたりすると「ピャッ!」という声を上げるので、鳴き声は毎日聞いているのだけれど、秋の夜鳴きは「ピョウオ~、ピョウオ~、ピョウオウオ~」という比較的長い鳴きで、音階が何ともうら寂しいトーンなのだ。それはまるで失った子供を呼び続けているかのように聞こえるのだけれど、実際は発情期に縄張り宣言をするオスの声なのだそうだ。
人間は実りの秋を見て味わって楽しむけれど、山の生き物にとっては楽しむよりも来たるべき冬に備えて蓄える時期なので、極めて真剣に食べ物を求めているらしい。人間が山に入る時は今の時代は遊びのためであるのに比べ、生き続けるために餌を求めている山の生き物は常に真剣なのである。 その昔、人間がまだ自然と協和しながら暮らしているころは、人里と動物の山との境に共有林、入会地、薪炭林などと呼ぶ緩衝帯があった。木を育てたり、薪を採ったり、炭を焼いたりして人が里山を手入れしていたころは、動物たちも人間との距離を測りやすく、人間も動物たちのことを心得ていたので、人間とクマがぶつかるように山で出くわすことも滅多になかった。 やがて、薪はガスに替り、木は外国から輸入されるようになり、人間が経済動物と呼ばれるようになって山に入らなくなると、里山は緩衝帯としての用をなさなくなった。動物たちは少しずつ人間の来ない山にも下り、人間の作物や食べ物のカスが大変おいしいことを学習する。そして、いつの間にか人間との距離感が分からなくなり、餌を求めて家の周りにも出没するようになってきた。 一方で、かつて動物たちのエリアだった山の中に道路ができ、車に乗って人間が大挙して押し寄せるようになった。最初は恐れおののいていた動物たちは、やはり少しずつ学習を重ねて人間の周りに行けばおいしい食べ物があることを知る。やがて、里山と同じように距離感を見失って鉢合わせになってしまうことが起きるようになる。 人間は80年から生きるけれど、山の動物たちはせいぜい10~20年ほどの寿命しかない。ということは、代替わりが早い分、学習が経験として次代に受け継がれるのも早いだろう。明治の人間がそろばんと大福帳で商売をしていたのに比べ、平成の人間はスキャナとパソコンで物を売っているように、人間だって3代経ると常識が変わる。クマだって3代経れば、人間は怖いという見方から、人間はおいしいものを持っているという見方に変わったとしても不思議はない。問題なのは、人間よりもクマの方が状況の変化に対応するのが早いということに、人間が気付いていないことなのだ。 乗鞍岳の畳平で人間を襲ったクマは、人間社会の法則で「処刑」されてしまったけれど、人間を一種の生物にとどめた自然界の法則があるのだとしたら、今までの経緯を見る限り人間に非はなかっただろうか。人間はもっとも賢い生物として地球上に君臨しているのだから、もう少し世界観を広げて自然界を見下ろしてみたらどうなのだろうか。はたして人間の都合だけが正しいのか、と。
オセロゲームのような選挙結果のおかげで、世の中は少しだけ変わりそうな気配が見えてきた。霞が関や永田町からはこれからいろんなものが出てくるんだろうなぁ。踏み潰されたトカゲとか、干からびたカエルとか、生きたまんまのゾンビとか・・・。
ノーテンキな八百屋は、今日も天井を眺めてため息をつきながら空想に耽っている。なんてったって連休は暇だもんでね。その空想の世界では、世の中はずいぶん今と変わってしまうのだ。何でそんなに変わってしまうのかって? 簡単なのだよ、人間にシッポが生えてしまえば・・・。 人間に細くて長~いシッポが生えているとする。その様はネコと同じようにしなやかに空を指し、うれしい時は先が揺れ、元気がない時は下を向き、怖い時は隠れるように股の間に入ってしまう。 パンツやジーンズにはシッポの穴があいていて、両足を入れた後に手を後ろに回してシッポを出してからお尻をしまわなくてはならない。シッポの穴はゴム編みになっていて、太さの違いに対応できるようになっているものが主流だ。夏はシッポ丸出しだけれど、冬はフリースなどのカバーが付けられるようになっている。シッポ用のストッキングもある。マセた娘に網タイツ風が人気。 レストランではシッポのマナーが悪いとみっともない。だらりとしっぽを椅子から垂らしたり、床に着けたりしてはいけない。椅子の後ろにぴんとまっすぐ上に立てるのが良いマナー。先っぽをテーブルの上に載せたりしてはいけない。シッポで後ろの席の人の頭をたたいたりするのはタブーだ。 電車の中など公共の場所でもマナーが問われる。シッポが他人に触れたり、イケナイことをしたりしないように二の腕に巻きついているのが良いマナー。ちゃんと二の腕に絡んでいないと、男は痴漢に間違えられても文句は言えない。吊革には「シッポで吊革をつかまないように」という注意書きがある。ドアが閉まる時には「シッポをドアに挟まないようにご注意ください」とアナウンスが流れるが、それでも朝のラッシュ時には、シッポが挟まれて所々のドアからはみ出したまま電車が発車する。 顔の表情と同じようにシッポが喜怒哀楽を表わしてしまうから、他人に内面を知られたくないときは、シッポの動きに注意を払わなくてはならない。麻雀でハネ満を黙テンしていても尻尾の先はピクリとも動かしてはならない。ボクシングではラウンド中にシッポが内側に巻いたらTKO負けになる。テレビ討論で野党議員に鋭く突っ込まれた与党党首が、顔は平然としていてもシッポの先がブルブル震えていたりすると、翌朝の新聞に資質を問うような記事を書かれてしまう。 しっぽの先に装着できる傘があって、自転車に乗る時は便利・・・。ヤクザから足を洗うときはシッポを詰めさせられるので、シッポを短く切った人は・・・。八百屋のオヤジは車のドアにシッポをはさんで、生涯シッポがくの字型になってしまった・・・。 ね、シッポがあるだけでずいぶん世界は変わるでしょ。そう考えているとキリがない。しかし、まったく・・・連休は暇だなぁ。誰だ!休日を動かすようにして5連休なんかにしたやつは・・・。
幻想的な秋の夜の森で、約10軒の夜店が出る予定です。
プロとアマがそれぞれの手作り品を持ち寄って、クラフトマーケットが行われます。 夜店と音楽と少しばかりのスープと焚き火が、あなたのお越しをお待ちしております。 普段味わうことのできない夜の森での小さなイベントに、ぜひお出かけください。 日時:2009年10月11日(日) 16:00~20:00 会場:塩尻市宗賀 平出遺跡博物館おとなり きんぴら工房 出展予定:竹細工(籠・箸など)・ガラスアート(アクセサリー)・木工(箸・椀・おもちゃなど)・家屋建築(組み立て模型や写真説明)・消しゴムハンコの制作・天然酵母パン 当日は参加者・来店者にカレースープの無料サービス(約50杯)を予定しています。 駐車場は平出遺跡博物館の駐車場を使っていただきます。 夜の催しであることと、民家も近いので声や音が響き渡ります。 素敵な雰囲気を味わうためにも、参加者全員が静かな時間と場所を作るように木を付けてただきます。 主催:きんぴら工房イベント班 問合せ:きんぴら工房 塩尻市宗賀1021-9 電話・電書:0263-53-5494 e-mail bynsx050@ybb.ne.jp
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