一昨年に見たアサギマダラの群舞が忘れられなくて、霧ヶ峰に出かけた。アサギマダラとは黒地に浅葱色の美しい羽をもつ蝶で、はるか奄美諸島まで数千キロの渡りをすることでよく知られる。
霧ヶ峰の、その名も蝶々深山(チョウチョウミヤマ)というこんもりとした丘のような山の裾に、低いミズナラの林がある。その周りのヨツバヒヨドリの花がアサギマダラは好きなようで、ヒラヒラハラハラと、思わず追いかけてしまいたくなるような優雅な飛び方で、群れ飛んでいたのだ。
ところが今年は出かけた時期が少し遅かったのか、ヨツバヒヨドリの花は茶色く咲き終わっていてアサギマダラは飛んでいなかった。ミズナラの根元に腰をかけてぼんやりと林を眺めていると、明るい日差しにミズナラの葉が揺れ、下生えの笹の葉がキラキラと輝いて実にきれいな風景だった。あの世というのはこんな景色なのではあるまいか、と思って木立を眺めていると、一羽のアサギマダラが現れた。ヨツバヒヨドリの周りを、もう終わってしまった花を惜しむように飛んでいる。大急ぎでカメラに姿を収めたが、もう1枚と思っているうちに飛んで行ってしまった。
この地、霧ヶ峰は日本のグライダーの発祥地なのだそうだ。思えば、その昔、ハンググライダーをやってみようと思い、設計図を手に入れたことがあった。実家が鉄工所をやっている山岳部の先輩と組立の打ち合わせまでしたのだが、急にアラスカ遠征に参加することになって中断してしまった。
その後、一緒に考えていた先輩は、ヨーロッパアルプスの岩場から、後輩とザイルを結んだまま1000mも墜落して肉片と化してしまい、ハンググライダーの話も復活することもなく、消えた。
ハンググライダーも事故が相次いで、ずいぶん亡くなった人がいたらしい。もしアラスカ遠征に行かず、ハンググライダーにトライしていたら、私も若くしてみんなに見送られていたかもしれない。自分では大変な臆病ものであることを自認しているけれど、若くして見送った知人の数を数えてみると、一歩間違えば自分だって川を向こう側に渡っていたかもしれないのだ。
美しい風景の中をたった一羽で現れたアサギマダラは、そんなことを思い出す不思議な気分をばらまいて行った。ミズナラの林を眺めながら「オレが先に行ってしまったらこんなところをさまよっているだろうから、ときどき見に来てくれよなぁ」と、つぶやくと「私はそのころにはボケて忘れてしまっているから、子供たちにちゃんと言っておいてよね」と、隣に座っている妻は言った。