八百屋のオヤジは、高校生になる息子Rにケータイを持たせるかどうか迷った挙句、ある日の事を思い出した。
それは昨年の初秋のことだった。オヤジは息子Rを伴って、20代後半まで暮らした生まれ故郷を訪れた。15年ぶりに訪れた興奮から、オヤジは散歩中の犬と同じように街の角という角の臭いを嗅ぎまくり、最後は中学校にたどり着いた。そして校庭のベンチに座り、中学生のころによく食べた学校近くのパン屋さんの、大好きだった「焼きそばパン」を、息子Rと分け合って食べた。
それは実に感動的なひと時だった。
中学校は何も変わっていない。校舎も校庭も、卒業間際にようやくできたプールも、全くそのままだった。目に入るものすべてが、時間が止まったように昔のままだ。オヤジはどっぷりと感傷に浸った。体育館から部活の掛け声が聞こえてくる。「よう、久しぶり!」と言いながら、バスケットの練習をしている同級生が中から出てきそうな気がした。みんなでヒコーキ飛びを競い合った高鉄棒を見ると、そのころの自分と見紛うばかりの息子Rがぶら下がっていた。
そのひと時の事を思い出したオヤジは、ケータイなどというケッタイな物のことだけでなく、息子Rの「今」が理解できそうな気がしてきた。
オヤジは、明日が高校の入学式という日の夕方になって、息子Rにケータイを持たせてやることを決心した。そして、まだ半信半疑の息子Rを車に乗せると、大慌てでケータイショップに向かった。その道すがら、オヤジはこの結果は最初から決まっていたような気がしてならなかった。こうなることを予期しながら、回りくどく手続きを踏んだに過ぎないのではないか、と自分の所業を哀れに思った。
化石人間のオヤジが息子Rにケータイを持たせたくない理由は二つあった。ひとつは「みんなが持っているから」という多数決80%の判断基準をやめて、20%の少数派でも自分のスタイルを貫くべきだ、という息子Rへの希望であった。もうひとつは、困った状況から自分で抜け出す力をつけるためには、ケータイを持つことは逆効果であるという判断からであった。
しかし、そのどちらも息子Rに求めるには無理があった。みんなが持っているものは自分も持ってみたい、困った状況なんかにはなりたくない、と息子Rが思うのはごく当然のことであった。それは自分が息子Rと同じ年頃だったころのことを思い出せば、息子Rと二人でたたずんだ故郷の中学校でのあのひと時を思い出せば、オヤジにもそれが自分のことのように理解ができることなのだった。
夕暮れの道を走りながら、オヤジは世代ギャップを乗り越えることができず、やたらと理想を振り回す困った存在に自らが成り下がったことを、認めざるを得なかった。 2003/4/15