久々に家から店まで電車で通ってみた。ふだんは車で20分の所要時間が、電車では駅まで歩く時間を含めて優に1時間はかかる。しかも田舎電車は途中の駅にて平気で10分も停車する。仕事と寝ている間以外の自由になる時間が極端に少ない時間貧乏の身にはなかなかつらいものがある。しかし意外や意外。待つという時間がなかなか贅沢であることを発見してしまった。
車という自分の意志で動くことができる手段では、信号で30秒待たされるだけでイライラするときがある。コンビニやファーストフードが流行る背景には、待たずに買える、すぐ食べられるという待たせないことのメリットがある。しかし電車では運転のダイヤが決まっているのだから、それに身を委ねるしかない。待たされるのではなく待つしかない。常にやらなくてはならないことに追われているような時間貧乏な生活の中で、何もしない、ただ宙に浮いたような待つ時間とは得がたい贅沢なのである。
思えばその観念は待つことが受動的であるか、能動的であるかによって変わってくるのかもしれない。「待たされる」から「待つ」になり、さらに自発的に「待っている」時間を楽しめるようになると、時間貧乏であっても、もう少し豊かな生活ができるようになるのではないか、と田舎電車の中で発見したのであった。2007/2/20