最近、山岳遭難で出動したヘリの事故が続いて、遭難救助がいかに危険なことであるかが広く知られるようになった。さらに、その取材に行ったテレビクルーまでが遭難死するというお粗末もあった。どんな状態を遭難と呼ぶかという規定はないのだけれど、遭難したと認識して救助を要請する側と、その要請を受けて救助に向かう側との間に、最近は大きな認識の差があるような気がする。
そもそも、山に登るという行為はまったくの自由意思に基づくものだから、その途上で起きたことについてはすべてが自己責任に帰するはずである。ところが警察は消防といった行政は、どんな理由で登ったにしろその地域で起きた遭難に対しては出動して救助する義務がある。まったく無防備で起こした遭難であっても、無防備を理由に出動しないことは許されないし、無防備であったことを処罰することもできない。そもそも、救助隊とはそうでなくてはならない。
でも、さいきん山で出会う人たちは、いつ遭難を起こしても不思議ではないほど足元が危なっかしい。バランスを保つためにストックを突いているのではなくて、ストックにすがって歩いているような人もいる。話してみるとおそらく少しでも不如意なことがあれば、すぐにでもケータイで救助を呼ぶのではないかと思えるほど無防備だ。そんな危うい人たちを、今年の夏も見かけた。
北信五岳のひとつ、斑尾山のトレイルでのこと。小さなピークでお昼を食べていると、単独の男性がやってきて同じ場所で休んだ。こちらから聞きもしないのに話し始めたその人のここまでの道のりは、「ここはどこ?」で歩き続けた結果にたまたまここに来てしまった、という危ういものだった。
「宿の人にトレイルの入り口まで送ってもらって、斑尾山の斜面を横切る道を歩くつもりだったのに、斑尾山の頂上に出てしまった。そこにいた6人組の人たちについて下り始めたが、その人たちとは行き先が違うようなので、どこだったか今はわからないけれど道を曲がったら車道に出た。その向かいにある道標から登ってきたらここに着いた。地図は宿の人がくれたけれど、ぐちゃぐちゃ書いてあって(等高線や記号の意味がわからないということらしい)分かりにくいので見なかった。これから赤池に行くにはどう行ったらいいでしょうかね・・・?」
ここは大きなピークを目指す本格的なルートではなく、山を歩くためのトレイルだからとは言っても、自分のいる位置や進む方向も分からずに歩いている人がいるのには驚いてしまう。山の中でも道があり人が歩いているのだから、ここも街と同じような社会の一角だと思っているのかもしれない。
でも、それは違う。もし自分だけでは動くことができなくなった時に、助けを求めなければ解決しない場所は、社会の一角ではない。そこは山というところなのだ。この人にとってはこの日もひとつの「実績」となって、無防備の積み重ねがまたひとつ増えるのだろう。また遭難予備軍が増えていく。2010/8/24