アメリカのカリフォルニアでは学校関係の仕事やボランティアをする場合は、指紋によって犯罪歴の照会をしなくてはならないそうだ。子供を相手にする以上、児童虐待や性犯罪歴のある人を雇うわけにはいかない、ということなのだ。その指紋での照会は学校関係だけではなく、医療関係、老人介護などのコミュニティサービスをする人や、車のディーラー、株のブローカーにまで必要なのだという。
指紋による紹介が必要な場合は、各町にある指紋のサービスセンターに自ら出向いて指紋を採り、それを州の司法省やFBIに送って犯罪歴がないことを証明してもらう。それは指紋という個人情報を、自分の潔白さを証明するためのものとして利用されているということでもある。
日本では、指紋は警察にむりやり採られるものだ。指紋を自分の証明のために使える社会システムというのは日本では聞いたことがない。その管理と利用のされ方については詳しくはないのだけれど、犯罪者の行動を特定するための証拠としてしか表立つことがなく、ネガティブなイメージが持たれている。交通違反で切符を切られるとき、印鑑の代わりに指紋を押すことにどうしようもない抵抗感がある。いつも印鑑を持ち歩く人間がどれだけいるのかと考えると、あの反則切符には指紋を収集する任務も含まれているのではないか、と勘繰ってしまうほどだ。
アメリカも日本も、個人を特定するための手段として指紋を利用していることは同じなのだけれど、大きく違うのはその指紋という究極の個人情報を、「だれが」、「何のために」使っているか、ということだ。それは行政や司法が市民とどのように向き合っているかということでもあって、同じ民主主義(この言葉はうそっぽいので使いたくない)国家でありながら、決定的な差があるように思えてしまう。 2004/9/28