週に3日、採りたての野菜をいただきに行く塩尻有機の集荷場は中山道の旧塩尻宿にあって、先週の週末は一帯がお祭りだった。まだ一度も見たことはないのだけれど、その阿禮神社のお祭りは7つの舞台(山車)を曳いて練り歩き、なかなか勇壮なのだそうだ。
そのお祭りが終わって数日たったある日、われらが国の只今の首相は「原発に依存しない社会を目指すべきだと考えるに至った」と、記者会見で述べた。それは各メディアで「脱原発宣言」として大々的に報じられたが、その後は日を追うごとに「根拠のないうわごと」だとか「首相の個人的希望だ」という、いわば死に体首相の妄言であるかのようになってしまった。
でもね、この首相が言うところの脱原発の方向性に、どこか間違っているところがあるの? 大震災以降、この首相のリーダーシップには風当たりが強い。とくに新聞の政治記者や、経済団体には評判が悪い。「存在自体が日本の害悪」とまで言う人までいるのは、まったく体制を入れ替えれば、どこか数年前の太郎ちゃんに似ているような気がする。困ったことに、浜岡を止めたときも、こんどの脱原発宣言も、この首相には政治家としての理念よりも、自己愛が優先されているようなところがあるように思える。でも、それが自己愛に満ちていても、方向性については間違っているとは思えない。だから、むかし給食のスキムミルクを我慢して飲んだように、鼻をつまんで一応支持する。
とにかく、今は大きな曲がり角に来ているのだ。山車を今まで進んできた道とは違う向きに直さなくてはならない。ただ、あまり拙速に進めると、山車の舞台が張りボテでしか作れず、すぐに色あせたり、雨が降っただけで溶けてしまう。せっかく原発から再生可能エネルギーに軸足を変えようという動きが、無に帰してしまうことになっては困るのだ。ゆっくりでいいからコケないように曲がり角を曲がるように、多少の臭さは我慢して綱を曳こう。
政治家の食えない自己愛ということでは、任命されて数日で辞めた復興相もひどかった。取りざたされた発言は、その前後の状況をすっ飛ばして言葉だけをくりぬいたようなものだから、多少受け取られているニュアンスとは違いがあるらしい。それより辞任の会見で「4月に亡くなった歌手でフィービ・スノウというのがいる」と言った。続いてカズオ・イシグロも出てきた。この人も政治家という立場と、自分の内面がごっちゃになっているのだ。公的な立場を追われるように退くときに、おそらく自分の心情に影響があった人の名をあげて、涙ぐんでしまうような人が政治家になるべきではない。自分がそうであるだけによくわかる。
でも、フィービ・スノウが死んだのは知らなかったので驚いた。ちょうどそのころ、久々に聴きたくなってCDチェンジャーに古いアルバムを組み込んだところだったから。2011//7/19