あちこちの田んぼに水が入り始めて、カエルの歓声が聞こえてくるようになった。すでに田植えを終えた田んぼもあって、これから4か月余り、稲作農家は田んぼの水加減に余念がない。田んぼの水の管理は自分の田に引く分だけでなく、川や水源から順番に流れてくる水路を整備することが大事で、地区ごとの共同作業が年に数回は行われている。田んぼで稲を作るのは山奥の隠し田でもない限り、ひとりだけで完結させるのは難しい。
日本の社会構造はムラ社会といわれて、今の世になっても古くからの地域のしがらみが残っていたり、都市部でも町内会という形で残されている。この抜け駆けを許さないような相互を監視する(ちょっと言いすぎのようだけれどとても実際的)システムは、田んぼの水を共有することから始まったのではないだろうか。もちろん、地域が共同で行うことは他にもたくさんあって、そのすべて古くてかなわないと言うつもりは毛頭ないけれど、日本人の考え方の根底にある横並び意識や主体性の無さは、この田んぼの水を共有することに大元があるのではないか。
それを農耕民族という一方で、痩せた土地と寒い気候で作物を育てるよりも動物を捕まえて食べてきた狩猟民族の人たちは、限られた獲物を他人より多く得た者が繁栄するのだから、隣の家はすなわち競争相手になる。自分でとらえた獲物を一人占めできる分、自分に降りかかる危険や災難もひとりで乗り切らなくてはならない。だから自己主張をして自分の利益を守ることが当然だし、生じたもめごとの責任を他人に追わせようとする交渉術に長けている。
原発を巡っては、大事故を起こした日本の政府が将来的なビジョンもなしにまた原発を動かそうとしているのに比べ、ドイツはさっさとすべての原発を将来的に廃止するという決定を下した。しかも、直前まで原発を推進していた首相が180度方針を転換するという思い切り方だった。
日本とドイツは戦争でともに敗れ、近隣諸国に多大な禍根を残したこと、モノ作りに長けていて経済的に復興を遂げたことなど共通する部分があるけれど、戦争の禍根への向きあい方にしても、原発と放射能への向きあい方にしても、その対処の仕方は日本とドイツまったく対照的だ。ホロコーストは誤りだったとする歴史観や、放射能は管理しきれないリスクだとして原発を止めようとする施策は、戦争の禍根に謝罪しようとすると自虐史観とされ、放射能のリスクよりも経済がしぼむリスクを優先して救おうとする国からみると正しく思える。
でも、私たちの祖先からの長い歴史を振り返ってみると、それは無い物ねだりなのだ。ドイツ人には常にリスクと向かい合って生きてきた狩猟民族としてのメンタリティが色濃く、日本人には田んぼの水を共有して横並びで生きてきた農耕民族としてのメンタリティで物事を考えている、ということだけ。日本の国がドイツのように物事を決めるようになることは、今後数百年の間に起こり得ないだろう。2012/5/8