42年前の夏、高校1年生だった私は初めて信州を訪れた。中学生のころもひとりで福島や広島、三重に出かけていたが、高校で山岳部に入って山を登るようになるまで信州には縁がなかった。ワケあって夏山合宿に参加できなかった代わりに、学校関係の人が借りていた大鹿村の家に滞在して南アルプスに登るためだった◆新宿から夜行の急行に乗り、辰野から飯田線に乗り換えて伊那大島まで来ると、駅前で待っていたバスはボンネットがある昔のバスだった。ほとんど貸切のようながらがらのバスは、小渋川沿いの道をくねくねと進む。その道は忠実に山襞を回り込むまったく直線のない山道で、果たしてこんな山の奥に本当に人が住んでいるのかという不安も頭をよぎるほど、東京生まれの高校生には感動的な道だった。途中、大河原から道は舗装されていない急坂になり、土埃をもうもうとあげながらバスはゆっくりと釜沢部落に近づいて行った◆やがて山道が分かれて、赤石岳の登山口に向かうバスは小渋川に向かって下っていく。その分かれ道でバスを降り、しばらく歩くと釜沢部落の真ん中に出た。車が通れる道は歩いてきた道だけで、部落の中の道は人と荷車が通れるだけの細い道が縦横に走っていた。ここまでやって来る道に直線がなかったのと同じように、釜沢部落の中には平らな土地が見当たらなかった。畑も森もどこもかしこも南向きの斜面にあって、わずかに家とその周りだけが平らに整地されていた。南には小渋川の広い谷が開け、その向こうに赤石岳の稜線が見えた。谷から瀬音が暑い夏の上昇気流に乗って聞こえ、時計よりも太陽の在り処で時を計るようなゆったりとした空気が流れていた◆高校3年間の夏休みは毎年この釜沢で過ごした。山岳部の1年上の先輩たちがいつも一緒だった。1年生の時は大河原の農協まで買い出しに行かされ、背負子にてんこ盛りの荷を担いで炎天下の道を釜沢まで歩いた。暑くて辛くて体中から汗と涙が噴き出して、道路の乾いた土に染み込んでいった。なんでこんなに苦しいことをさせられるのだろうと先輩たちを恨んだが、今思えばそのおかげで多少は辛抱強くなった。途中にある上蔵の部落には重要文化財の古いお堂があって、とんでもない山の中なのに鎌倉時代からの古い歴史があることを知った。釜沢のさらに奥には御所平という地名もあることから、平家の落人が住みついたという歴史は本当なのだと思えた◆それから20年後になって、大鹿村からさほど遠くない地に住むことになったのは、その時の体験がいかに大きかったかを表している。街中でなければ成り立たない仕事を持って信州に移住したため、さすがに大鹿村に住むことは叶わなかったが、岡谷に店を構えて八ヶ岳の麓ではなく伊那谷に住むことにしたのは、伊那という地名に親近感があったからに他ならない。まだ何も知らない高校生のころに触れた山郷の暮しへの思慕が、風光明媚な八ヶ岳山麓よりもいまだに垢抜けない伊那谷を選ばせたのだ。