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ある時、山沿いの村を車で走っていると、「若人の広場」という大きなはげたペンキの看板が現れた。古い金網のフェンスの向こうに、犬小屋を大きくしたようなバンガローと屋根が朽ちた水場があって、かつては夏になるとここに大挙して集まり、キャンプファイヤーを囲んで歌を歌ったりしたであろう「若人」の面影を偲ぶことができた。同じように看板を見ていた助手席の妻は「ワコウドねえ、もうすっかり死語になっちゃったわね」とつぶやいた。
「若人」に限らず「青年」とか「ヤング」とか、かつては若い世代を表わす名詞がいくつかあって、時代とともに変わりつつも使われ続けてきたが、このところどれも使われることが少なくなってきた。今も使い続けているのは世の中の動きに鈍い官公庁だけか。言葉は、表す実態は変わらなくてもその意味が持っていたイメージが変わってしまうと、使われなくなってしまうのだ。「若人」を高校生の現代国語の試験問題に出しても、読み書きの正解率は結構低いのではないだろうか。 廃墟と化した「若人の広場」が賑わったのは、おそらく40~50年前のことだったのだろう。所得倍増計画が打ち出され高度経済成長が真っ盛りの時代。地方から金の卵が専用列車で続々と上京し、たくさんの仲間と仕事にいそしめば翌年には必ず給料が今よりも上がった時代。今までにはなかった生活を楽にする家電製品が続々と登場し、それを買うことで実際に生活が向上することを実感できた時代。その時代に広場に集まってみんなで歌を歌った「若人」。 仮に「若人」の世代を20~25歳とすると、今、その年齢の「彼ら」は、バブル前後に生まれ、「失われた10年」と呼ばれる長い経済停滞期に子供時代を送り、人口減に伴うデフレが渦を巻く時代に社会に出ようとしている人たちのことになる。経済の充実が人生のすべてではないけれど、働くことの成果が自身の生活の向上で感じられた時代と、学校を卒業してもかなりの割合で就職すらできない時代では、先行きに感じる明るさがまるで違う。この40年余りの間に、坂の上にあった希望はどこかに消えてしまった。代わりに坂の下に置いてあるのは、支払期日の迫った約束手形だ。 内向きだ、意欲がない、草食だ、などと今の「彼ら」にはおとなしくて物足りないという評価をよく耳にするけれど、そんな彼らの性癖は彼ら自身が作ったものとは言えない。ケータイやゲーム機の存在は、彼らの日常や人間関係の作り方に大きな影響を与えたが、それらを開発して利益を上げたのは誰だったのか。ゆとりを重視した教育課程が彼らの競争意識を削いだというけれど、それを決定して彼らに授業を施したのは誰だったのか。 確かに「若人」と呼ばれた時代の人たちと比べて、今の「彼ら」は物足りないかもしれない。でも、これから社会に出ようという時に、これほど厳しくて不安が満ち満ちていても、「彼ら」には選択の余地がない。駅伝でトップ争いをしていた選手が、脱水症状でズルズルと順位を下げしまったタスキを、「彼ら」は無言で受け継いで走り出さなくてはならないのだ。2012/1/31
横殴りの雪つぶての中を、安曇野の「蔵久」にやって来た。毎年極寒期になると、この造り酒屋の旧家の雪景色を見ながら、カミサンと一年の時の流れを振り返りながらとりとめのない話をする。今年は池がすっかり雪に覆われていて、飛んできたモズが「チェッ」と舌打ちしていた。
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めぐりめぐって1月も下旬。早いもので、大震災の一周年が視界に入ってきた。津波が破壊した街並みは徐々に復興しつつあると聞くけれど、自分の目で見て感じたわけではないので、いまひとつどんな様子なのか実感がわかない。
阪神大震災の時は、震災から1カ月ほどたった頃に車にたくさんの支援物資を積んで神戸の公園に行き、ボランティアもどきをしたことがあった。その時に感じたのは、表面的なことだけかもしれないが、たとえ家を失ったとしても、生きている人は意欲がある限り立ち直るのが早いということだった。 痛々しさを感じたのは、道路に放置された瓦礫だった。子供の本やおもちゃ、学年や名前が書かれた体操服が壊れた家の下からのぞいていた。そこにあった生活そのものが地震で押しつぶされ、そのまま雨ざらしに放置されていた。どんなにリアルな話を聞くよりも、そこに現実感があった。 それから17年がたち、毎年正月に訪れるかつての被災地には、もう震災の面影はない。だから東日本の被災地も十年たてば・・・と願うのだけれど、広範囲にわたる海辺の被災地には、神戸周辺の都会とは違う復興の難しさがあるのだろう。何しろ海を仕事場にしていた人たちの、船から、生簀から、納屋から、網から、冷蔵庫から、岸壁に至るまですべてが破壊されつくされてしまったのだから。 地震と津波で亡くなった人は永遠に戻ってこないし、破壊された街や設備が復興するにも年の単位の時間がかかる。津波がきっかけで大事故になった原発から放出された放射能の一部は、その能力が半減するまで30年かかる。炉心溶融を起こした原発は、廃炉にして数百年も管理し続けなくてはならない。失ったものは大きくて、これから付き合い続けなければならない負の遺産の時間の単位は気が遠くなるほど長いのに、原発をどうするかという議論も合意もないままに、原発を再稼働させようとする手続きが、事故から一年もたたないうちにどんどん進んでいる。 津波の被災地は人が協力し合わないと復興が進まないから、被災者の団結は強まったそうだ。あなたも私も、あの人もその人も同じ津波の被害者なのだから。でも、放射能が降り注ぐ街では、とてもここに住んでいられないと感じて避難する人と、なぜそんなに恐れるのかと街を離れる人を非難する人と、逃げたくても逃げられない人とが、水と油のように混ざり合って暮らすことになった。同じ震災の被災でありながら、この差はこれからの街の行方に大きな差を生むだろう。 放射能は目に見えないからだけでなく、放出した主体は誰なのか、その責任はだれが負うのか、その影響は人間の身体にどんな結果を生むのか、その結果と因果関係をだれがどう認めるのかなど、不確実で不審で不安なことばかりだ。その人の主観によってどうにでも見ることができる不定なリスクが、誰にも等しく身の回りの空気中に飛び回っている。そんな被災地が復興するためには、どんなことが必要なのだろうか。2011/1/24 ![]() ![]() ![]() ![]() え、私の写真!? いややわ、やめといてください、こんなしわくちゃやから恥ずかしいわ。え、この絵ハガキ持って? はい、ほんなら・・・。カシャッ! ![]()
12月に亡くなった北朝鮮の「将軍さま」のカラダは、エンバーミング(防腐処理)されて永久に保存されるそうだ。彼の偉大なるパパもそうされて眠っているので、同じ場所に親子で並んで永遠に眠り続けるらしい。
ふたりの元「将軍さま」以外には、ロシアにレーニンが、中国には毛沢東が、ベトナムにはホー・チ・ミンのカラダが永久保存されているそうだけれど、いずれも社会主義国家なのだ。人民のための国家は、偉大なる指導者を永遠に崇め奉るのが好きなのだ。人民を解放するのが社会主義なのかと思ったら、偉大なる指導者を頂点とした階層社会なのだな。おっと、田舎の八百屋のおじさんはこんな話に深入りしてはいけないな。 ほぼ100%が火葬される日本ではエンバーミングはめったに必要とされないけれど、土葬が多い欧米では当たり前の処置としてされてきたらしい。仏教国のはしくれである日本と、よみがえったキリストを救い主とする欧米との宗教の問題も作用している。そういえば、最近は日本でも映画の影響でエンバーミングが注目を浴びたことがあった。 エンバーミングは亡くなった人にすることだけれど、生きている人がいつまでも若くあろうとする努力をアンチエイジングという。このふたつを一緒に並べると大変不興を買うことは分かっているのだけれど、ある一線を超えるとこのふたつには境目がなくなる。不老不死の肉体はありえないが、不老の外見はいくらでも作ることができる。それを、本人が、感覚的に、受け入れることができれば。 肉体は二十歳前後から早くも老化が始まるものらしい。生育を終えた途端に老け始めるわけだ。それでもまだ三十歳代の老化はわずかなことだし、精神の成長が肉体の老化を補ってくれるから、老化という言葉は実感できないが、四十歳代になるとため息とともに実感が伴ってくる。そして五十歳代になると、肉体の老いが精神の成長を追い越して先に行ってしまう。この時にやはりそれを受け入れることができるかどうかが、その後の老い方を決めるポイントになるのではないだろうか。 七十歳なのに五十歳代に見られることが、さも尊いことであるかのようなアンチエイジングよりも、七十歳なら七十歳らしくみられる老い方のほうが美しい。人間には年齢にふさわしい外見と物腰というものがあるもので、それを身につけるためには外を繕うのではなく、中を充実させることなのだ。肉体は老いていっても、精神はさらに成長を続け、知性には磨きがかかる。それが老いを感じさせない良い老い方だ。 五十歳をとうに超えてしまい、下り坂の上から坂の下を見下ろす年代になって、坂の下にたむろする人たちがよく見えるようになってきた。これまではいつも脇道や獣道ばかりを選んで歩いてきたけれど、これからの下り坂にはそんな怪しい道は残されていない。登るときはよく考えずにがむしゃらに登ってしまったから、下る時は気をつけないと足を挫くことになりかねない。坂の下にいる人たちの中で、良い下り方をしたなと思える人にひとつの共通点があった。それは本をよく読んでいる、ということだった。これはよく見習っておこう。本は誰にもよく効くアンチエイジングなのだ。2012/1/17
ふだんは週7日間店に出て、5月連休と夏の休みはどこかに出かけてしまうので、正月の元旦は一年で唯一の、朝から晩まで家で過ごす日である。
滅多にない一日だから、いつも寄生虫の・・・じゃなかった帰省中のムスコやムスメたちといっしょにアホな写真を撮りまくる。(ワープロの変換ってジョークがうまいね) 今年はカミさんが「足の長さ比べをしよう」と挑んできた。身長が10cmも違うのだから負けるわけがねぇだろうが。この際自慢の足の長さを見せてやろうと、おとっつぁんは受けて立ったのだったが・・・。 ![]() 悔しいことにテキは笑っておるぞ。腰に手まで当てて余裕しゃくしゃくだぞ。それにくらべておとっつぁんは、哀れ床に崩れ落ちてムスメたちに介抱され、しばらく立ち上がれなかった。
みなさま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
この十年余り、大晦日は午後3時で閉店させて頂いてきました。大晦日は午後になると車の通りもめっきりと減り、片付けを終えて暗くなってから店を出ると、もうすっかり深夜のように静かだったものでした。ところが、正月でも営業する大型店が年々増えた影響か、この数年は大晦日の午後とはいえ普段通りに車が走り、午後3時で店を閉めるのをためらうようになってきてしまいました。事実、昨年の大晦日は店を閉めた後で問い合わせの電話をいただきましたし、年が明けてから「通りがかったらもう閉まっていた」というお話も伺いました。世の中は年々変わっていくものなのですが、一年で唯一世間のスイッチがOFFになる日もなくなりつつあります。 暮れに食器洗い機について書いたところ、珍しくたくさんの反応を頂きました。この寒いのにお湯が出ないなんて奥さんがかわいそう、男の人が食器を洗うなんてみっともない、食器洗い機はキッチンの大進化だ、などなど。みなさんそれぞれに生活の力点の置き方が違うので、いろんな感じ方をなさるのは当然のことです。お湯が出ないのはひとえにビンボーのせいで、誰かの甲斐性の無さゆえであることは間違いありませんが・・・。 実は、その食器洗い機について口幅ったいがために書ききれなかったことがあります。それは、食器洗い機がキッチンの標準装備になると、やがて食器自体が変わっていかざるを得なくなり、電子レンジと食器洗い機に対応した平板な食器ばかりが食卓の主流になるだろうということです。手で行ってきた作業を機械でこなすことになると、手で感じてきた感覚が失われます。たかが食器を洗うことでも、目で見つめ、指で感じてきた感性は、器という道具への意識を育んできたはずです。それが失われるのは惜しいことだ、と。 人間はある時期まで機械を使うことで進歩してきました。最近の機械も生活の質という点で進歩をつづけていますが、一方で人間の能力や意識を退化させることにもなってきたのです。それを「昔は何でも手でやったもんだ」とこだわっていれば回顧主義でしかありませんが、機械と手を必要に応じてうまく使いわけることができれば失うもののない進歩になります。そうしなければただの退化ではないか。 どんなに進化した機械ができても、その機械の存在のために人間の能力が退化したり、果ては人間の存在が脅かされたりするのは馬鹿げたことです。そのことは、かなり昔から科学や技術の進歩の滑稽な結末として映画や文章で表現されてきましたが、とうとう昨年はここからわずか250kmの地点で現実と化してしまいました。困ったことです。でも、よく考えてみれば、当然の結末でもあるのです。 人間の考えた科学技術は素晴らしいものなのですが、あくまでも人間の世界での想定でしかありません。しかも、私たちはこの地球46億年の歴史の中のほんの一瞬しか知らない。この信州を取り囲む山々が、数百万年の時間をかけてせり上がったという時間の長さで考えれば、マグニチュード9の地震などこの周辺では日常茶飯事のできごとなのです。とんでもないことを言っているように聞こえるかもしれませんが、現実に私たちはそんな地震を含めた地殻変動を繰り返して、海から3000mもせり上がった山のそばで暮らしているのです。 この数十年で進化した情報通信や映像記録などは、素晴らしいものだと感心します。人間の知恵はやっぱりすごい。でも、この地球は私たちが思っているよりも凶暴だし、人間の持っている秤や物差しはそれに対してあまりに小さすぎます。原子力という自然界にはない物理現象を作りだして、その熱を利用するという知恵を現実化させる前に、なぜそのことに気がつかなかったのか。いや、これだけの知恵を弄するものが気がつかないわけがなく、実はそのリスクは折り込み済みだったのです。科学を深く知る人ほど、科学が万能ではないことも知っています。だから、最大限の想定を超える災害があった場合は、もう「仕方がない」となるらしい。 科学について専門家ほど深くは知らず、恩恵を享受する一方だった私たち市民は、その「仕方がない」の結果も否応なく引き受けさせられることになりました。大変不本意ですが、この島で生きていく以上は、身の回りの放射性物質とうまく折り合いをつけていくしかなさそうです。そのためには何が必要なのか、よく考える必要に迫られています。答えは簡単に見つからないでしょう。しかも答えは幾通りもあって人によって違うでしょう。でも、自分で考えなければ答えは永遠に得られないでしょう。2012/1/10 ![]() さて、この正月も例年通りに2日から関西で過ごし、5日の夜に帰って6日の早朝より仕事始めと、相も変わらぬせっかちな日取りで一年が始まりました。その関西でのうろつき報告は、後日ゆっくりとさせていただきますが、冒頭の絵の橋を渡って島へ、雪をかき分け都の奥へ・・・。 今年もどうぞよろしくお付き合いくださいませ。 < 前のページ次のページ >
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