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正月は毎年カミさんの実家がある関西に行くので、暮れが近づいてくるとホテルの手配をします。いつも泊まっているホテルの価格が例年より高いので、いくつかの予約サイトを巡ってみたのですがいずこも同じ。どうやらインバウンドが増えたおかげで、業界全体のレートが上がっているようです。 実家に寄った後は関西周辺を1~2泊してから帰ってくるのですが、今年は紀州に行きます。今年の正月は京都の人たちが食事会を用意してくれたのでいつもとは違う京都を味わいましたが、今年はもう完全にオーバーツーリズムなので、京都や奈良などメジャーな観光地は避けることにしました。きっと紀州だって似たようなものでしょうけど、まだマシかと。 紀州といっても広いのですが、まだ足跡がない御坊から串本の間を埋めようという魂胆。温かな海辺のみかん畑と照葉樹林という風景に加えて、今回はひとつのテーマを見つけました。以前からさらりとは知っていたのですが、この機会に深掘りしてみたいことを今から少しずつ調べています。これから加速度的に店が忙しくなっていくのでなかなか本を読む時間を作れないのですが、朝の5:30から出かける犬との散歩の前に少しだけ。 #
by organic-cambio
| 2024-11-30 16:35
| 店主の雑言
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みなさんに可愛がってもらっている看板犬ミミですが、今年は調子こいてカレンダーを作ってしまいました。自家用には2年ほど前から作っていて店のレジ後ろにもかけてあるのですが、好評につきノベルティとしてさしあげることにしました。絵に描いたような飼い主バカです。 ◆ミミは来週の28日で満4歳になります。松川町生まれの「和泉姫」という血統上の名前がある柴犬で、父親が黒柴なので毛先や尻尾に黒い毛が多いちょっと変わった毛色をしてます。同じ胎のきょうだいで最後まで残っていたのは、日本犬保存会に属する犬舎としては正統派の柴犬というには問題ありだったからかもしれません。そのおかげで、我が家で個性的な柴犬として迎えることになったのですが。 ◆柴犬にもいろんな個性があるのですが、このミミは極めて人間と一緒に暮らしやすい性格です。なによりも自己主張が少ない。私たちが食事をしていても食べものを欲しがることはないし、自分の食事ですら食べないことがある。生理的な欲求でも声を上げることがない。そのかわり、切羽詰まった時は視界のど真ん中に座ってひたすらジイ~ッと目を見つめてくる。その訴求力はなかなか無視できないほどで、しかたなく夜の野原に連れ出して用を足させることがあります。 ◆人間の都合や使役犬としての用途のために品種改良を重ねた結果としての洋犬と違い、柴犬を含む日本犬は品種改良などせず昔からの血統を守っていると言われています。その分気難しい性格だとも言われます。確かに紀州犬を飼ったときはその性格のきつさに手を焼いたこともありますが、その性格を心得て付き合えば可愛い犬でした。近所の犬と白い毛が血で真っ赤に染まるまで取っ組み合いをするには弱りましたけど。 ◆犬を都合に合わせて改良する歴史と、昔からいる犬をそのまま守り続けてきた歴史との違いは、人間の自然観の違いに基づいているように思えます。気候が穏やかな大陸と、いろんな自然災害が押し寄せる島国との違いなのかもしれません。唯一無二の一神教の国と、八百万の神々がおわす国との違いなのかもしれません。いずれにせよ、犬は人間の暮らしに依存して存続してきた稀有な生き物です。そして今は、人間が犬の存在に依存する場面が増えているようです。いえ、私はぜんぜん依存していませんけどね。 #
by organic-cambio
| 2024-11-19 16:24
| 店主の雑言
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長い連載が終わって、いつもの雑言に戻ります。少しお休みのつもりで過去ログからコピペしてサボった連載でしたが、こんなに長くなるとは思いませんでした。インスタは2200字以上になると掲載不可だとは知らなかったので、刻んで載せたためです。よくもまぁこれだけ書いたもんだと思うのですが、今は記憶が薄れてしまったので書いておいてよかったと思います。お付き合いありがとうございました◆そして、この雑言も必要かどうか再考したのですが、当面は続けることにしました。これで何かを主張するつもりはないのですが、週ごとに考えていることを書き留めて発することは、この店がいままで続いてきたリズムであり呼吸なのです。店が体をなしている以上は続ける方が良い、と◆看板犬を含めてこの店のスタッフは、みんな物事を話して伝えることが苦手です。言いたいことを思ったように伝えることができず、後悔することが多々あります。それならば、紙にプリントしてお渡しすればいつでも読めるし均等に伝わる、というのが週刊CAMBIOの始まり。時がたって毎日SNSに記事を書くようになり、それをまとめて週刊のお知らせを作っていますが、今は紙のプリントよりSNSで読む方の方が多くなりました◆この雑言はプリント版のオマケとして余白を埋めるものでした。リズムや呼吸となってもオマケの範囲を出ないように心がけます。今後もどうぞよろしく。 #
by organic-cambio
| 2024-11-17 14:57
| 店主の雑言
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雑言バックナンバー 2009・10月 アンデスにて 15(最終回) 1月13日。風は収まるどころか、更に強くなってきた。これは季節の変わり目に来たようだ。 昨日の行動でわかっているだけに、もう可能性を探ることもない。 すべては終わった。登頂失敗。下山にかかる。 インディペンデンシア小屋から、C1へ。C1を片付け、すべての装備を担ぎ、一気にBCまで下る。C1を片付けながら、この間すれ違った日本人K氏が、頂上の直下にテントを張ってもう2ヶ月あまりもそこに「住んで」いる奴がいた、と言っていたことを思い出す。その男はようやく頂上に辿り着いた人たちに「少しでもいいから食糧を置いて行って欲しい」とせがむのだそうだ。この風の中、その「住人」はどうしているだろうか。 BCに下る途中、下からTが登ってくるのに出会う。日程からして今日が行動最終日になるので、C1で出迎えるつもりだったようだ。5人でBCに下る。BCより上部で5人が揃って行動するのは、これが最初で最後になった。 夕方、BCに着く。ここでは風が吹いていない。C1から下ろしてきた食糧や装備を片付けていると、となりのメンドーサ大学のテントから大柄な男がやってきた。流暢な英語で「私はとてもあなたに感謝しなくてはならない…」と言う。あの意識不明で私たちのC1に転がり込んでいた男だった。ヘリでC1からメンドーサの病院に運ばれたのだが、すぐに回復したのでまたBCまでやってきたのだ、という。いまさらここまでやってきても、これから頂上を目指すのは無理だ。わざわざお礼を言うために、またBCまで登ってきたのだろうか。
1月14日。朝、BC一帯は雪に覆われる。雪を踏みながら、のんびりとBCを片付ける。下りは一日で「インカの橋」まで下りてしまうので、明日の朝の出発で十分間に合う。メンドーサ大学パーティも片付け始め、BCのテントの数も大分減ってきた。
1月15日。ムーラ3頭に荷物を積み、私たちは歩いて「インカの橋」に向かう。相変らず炎天下の河原だ。コンフレンシアの渡渉では、対岸に居たアメリカ人パーティにザイルを投げ、お互いにチロリアンブリッジで渡る。むかし、トレーニングでやったことがあるだけのチロリアンだったが、初めて実戦で使うことになった。何でもやっておくと、忘れたころに役に立つものだ。 河原のお花畑の花は、もうすっかりと咲き終わっていた。オルコネス谷から振り返ると、アコンカグアが夕日に染まっている。大きな山だ。旗雲がなびいている。雪のある頂上付近はまだ風が強いのだろうか。
1月16日。バスでメンドーサに。ワインが特産の、どことなく南欧ようなの雰囲気の街だ。アルゼンチンはヨーロッパからの移民が多い国だからなのだろう。道のあちこちにカフェがテーブルを出している。夜の9時になろうというのに、町の中は人でごった返している。この国の習慣では午後のシエステの後、夕方から夜の8時ごろまで仕事をし、それから夜中に近い時間までが夕食タイムなのだ。 そのカフェのテーブルに5人で陣取り、ビールを注文する。登頂に成功した後であれば祝杯となるのだが、無事に下りてきただけで祝杯というわけにもいかず、意気の上がらない乾杯となる。今回の遠征は、Tの高山病に始まる予定外の行動に終始するうちに、登頂の機会を逃してしまった。決定的だったのは、高度順化が済んだ後で一度BCに下りたことだろう。若いOや体調をうまく保っていたSにとっては、不満の残るであろう結果になってしまった。しかし、彼らにはまだ何度となく海外に出るチャンスがあるだろう。 ビールがうまい。インスタント食ばかりが続いていただけに、食べるものすべてがうまく感じてしまう。カフェのテーブルは道路の歩道にあるので、目の前を人が歩いている中での食事だ。回りで常に人が動いているというのは、慣れないだけに目が回るようだ。「セルベッサ・ポルファボール(ビールを下さい)」と、ボーイを呼んでビールをおかわり。 久々のビールだけに、回るのが早い。目が回る様に見えるのは人がせわしなく歩いているからだと思っていたのだが、それにしては変だ。テーブルも回っている。おかしい。急に本格的に目が回ってきた。耳元で聞えていたさまざまな音が、遠くなっていく。まずい…。これはぶっ倒れる前兆だ。歩道を背にして座っていた私は、急いでどこか横になれる場所を探した。すると歩道の向こう側にビルの入口があり、そこが広くなっているのが見えた。フラフラと立上がり、歩道を横切ろうとしたが、そこで意識が切れてしまった。 かなりの時間、人通りの激しい歩道を塞き止めるようにして、私は意識を失っていたらしい。やがて、耳に音が甦ってきた。「アンビュランス(救急車)を呼べ!」という大きな声がする。英語で「私は医者だ」と名乗る人まで現れた。これはまずい。大騒ぎになってしまった。ほとんどまともに意識が戻ってきたが、これではとても起き上がることはできない。傍らにいるHに日本語で「もう大丈夫だ。人払いをしてくれ」と頼む。Hが身振り手振りで必死に大丈夫だ、と伝えようとしている。私はもうしばらく騒ぎが収まるまで、路上で死んだふりをしていることにした。
アンデスにて後日談 アンデスに出かけて以来すでに長い年月が経過し、生まれたばかりだった長女は店のスタッフになっています。もう充分に遠い昔の話となってしまったこの登山の記録を、なぜ今になってまたほじくり出したのかといえば、ちょっと虫干しをしておこうかということだけで、深い理由なんか特にありません。長い連載となってしまい、退屈だったこととお察し申し上げます。 これを登山の遠征記録と読むのか、38年前の旅行記と読むのかは微妙です。それは今だから微妙なのではなく、当時としても旅行なのか登山なのか微妙だったのではないか。それが登頂できなかった最大の原因なのではないか、と今回読み返して思うようになりました。 さまざまな予定外のトラブルが続いたとはいえ、どうしても登頂という結果を持って帰らなくてはならない、と常に感じて行動していたのなら、最後のチャンスで一旦BCまで下りることはしなかっただろうと思います。自分に子供が生まれたことなどで、どこか甘さがあったように思えるのです。 計画を立て始めた当初とは参加するメンバーも変わり、経験の浅いもの、年齢の高いもの、さらには夫婦まで含めた渾然一体となったメンバーとなりました。その一人一人が考えていることを慮る余地が足りなかったのではないか、と当時の自分に問うこともできます。しかし、今になっても十分にできないことを38年前になどできるわけがなく、人間としての力不足がまざまざと文中から浮き出してくるのでした。
メンバーだったTは文中では敬称も付けませんでしたが、私が高校生時代の山岳部顧問であり、私たち夫婦の仲人でもある恩師です。顧問になってから山を登り始めたので、経験では私たちの方が豊富になったため、顧問でありながら隊員として参加しました。 最年少で当時18歳だったO君は、この数年後にヒマラヤで雪崩に埋まって還らぬ人になりました。母一人子一人だった母の元には遺髪さえ戻らず、大変悲しい結果になりました。父親代わりを求めて、青年期の湧出るような情念をいつも年上の者にぶつけていた彼は、結局よい相手に恵まれず、薄い障子のような壁を突き破って、向こう岸にまで飛んで行ってしまいました。アンデスでの不完全燃焼が、彼の情念に油を注いだのかもしれません。 アタックの際にC1近くで出会ったKという日本人は、その後冒険家として注目を集めた河野兵市氏で、彼も2001年に北極海から歩いて日本を目指す途中で、氷の割れ目に落ちて亡くなりました。
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by organic-cambio
| 2024-10-30 16:13
| 店主の雑言
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出発前、となりの大学生テントから、年配の人が挨拶に来る。昨日意識不明になった学生はヘリで病院に運ばれ、無事回復したそうだ。病院のドクターが、意識不明の時に酸素を吸わせたことが実に効果的で、もしそれがなかったら危なかったといっているらしい。プロフェッサー(教授)という名刺を差し出したその人は、「あなたのおかげだ」と手を握り締めて放さない。こちらは嬉しいよりも、どことなく変な感じだ。あの状況では、貴重な酸素を分けてあげざるを得なかったことは確かだ。しかし、私たちのテントに転がり込んでいなかったら、どうだっただろうか。わざわざとなりのテントまで出向いて、いざという時に自分の命を救うために持ってきた酸素を分けてやるほど、私もお人好しではない。「メンドーサで是非私たちの大学に寄って…」というお誘いまで飛び出したが、こちらは予備日も消化しそうな日程なのだ。にっこり笑って、手を振りほどくように外して、出発する。 すでに何度も登ったC1までの道を、また登る。単調な電光型の道を登って行く。 C1手前の緩斜面で、日本人と思しき男が休んでいる。お互いサングラスをかけ黒く日焼けしているので、どこの国の人か解りにくくなっているのだが、着ているものや雰囲気で日本人と解ってしまうものなのだ。こんな時は「Hello」でも「Hola」でもなく「どうも」と声を掛けてみる。日本人であれば「やぁ、どうもどうも」と返ってくるからだ。 そのKという日本人は、すでに日本を出て3年も自転車で旅を続けているらしい。あちこちを回るうちに山にも登りたくなり、アラスカでマッキンリーに登ってしまったのだという。それから、どうせ登るなら五大陸ぜんぶ登ってしまえ、とアコンカグアにもやってきたのだそうだ。すでにペルーで高度順化は済ませてきたので、インカの橋からわずか6日で登り切り、今は下ってきたところだという。この次はどこへ行くんだ、と問うと「わからない。いつも走りながら決めるから…」 やっぱりこんなところにも居るんだ、こういう奴が。うらやましい…。 1月11日。Tを除く4人で、C1からインディペンデンシアへ。畳2枚分ほどの小さな小屋に4人が収まる。6400m。さすがに寒い。これで風が強くなったらテントはなかなか辛い。小屋の中は多少狭くても、テントよりは風がしのげるだけ楽だ。翌日の出発に備え、夕暮れには寝袋に入る。小屋の入口とは反対側に、小さな窓が付いている。その窓から夕日がゆっくりと沈んでいくのが見える。この高度で夕日が眺められるとは思わなかった。 その夕日が完全に沈んだ頃、突然小屋の戸が開き、大柄な男が身体をねじ込んできた。4人でもかなり狭いところに、さらにアルプスでガイドをしているというドイツ人の男が加わることになった。こんな時は、早く眠った方が勝ちだ。ところが狭い上に高度の影響で息苦しく、なかなか寝付けずにいるうちに、ドイツ人のいびきを聞かされることになった。ヨーロッパのガイドは行動や決断が素早いとは聞いていたが、眠るのも早かった。 1月12日。夜中、「グオー」という風の音で眼が覚める。 小屋がきしむような、強い風が吹き始めた。なんということだ…。 夜が明けた。 風が吹いている。入山以来、今までにはない強い風が吹いている。真冬の富士山を上回る強い風だ。 ドイツ人のガイドは、ビスケットをかじりながら頂上へ向かう準備を整えている。 私たちも、フリーズドライの玄米かゆを腹に流し込む。食事というより、儀式のようなものだ。これで腹がいっぱいになる訳ではなく、とりあえず腹を黙らせるだけだ。もう、この玄米かゆにも飽きた。下に降りたら二度と口にはしないだろう。 ドイツ人は小屋の中でアイゼンを着けながら、「君たちはどうする?」と聞いてきた。どうする、という問いにドイツ人で山岳ガイドでもあるこの男にも、迷いがあることが解った。それだけ強い風だということだ。 私たちが経験した最も強烈な風は、冬の富士山の風だ。それは、中に人が寝ている大型のテントが100m近くも空を飛ぶような風だった。風速が30メートル/秒を越えると、まともに立っているのも容易ではなくなる。雪に刺したピッケルに体を預け、風に背を向ける耐風姿勢でひたすら耐える。身体の腹側に風が入ると、一気に飛ばされる危険があるからだ。 今日の風は、その富士山の風を上回るかもしれない。私とHは冬の富士山を何度か経験しているが、SとOは未経験だ。今日はその差が大きく物を言うだろう。ここは富士山のような巨大な氷の滑り台ではないとはいえ、風を受けて転倒でもすれば事故になる。 ドイツ人の問いに「少し様子を見てから出る」と私は答えた。こちらは、彼と争うように飛び出せるほどの力量はない。残された日程を考えれば、ここで一日停滞することは可能だ。もう一日だけ、余裕はある。 ドイツ人は寝袋などを小屋に残し、出ていった。私たちも準備を整える。ルートはこの小屋からしばらく岩稜伝いに登り、広い雪原に出る。その雪原を横切ったところの南側にあるピークが6959mの頂上だ。今日の風では雪と岩の岩稜よりも、広い雪原を横切ることの方が難儀だろう。地吹雪にでもなったら動けなくなる。 準備を整え、外に飛び出す。予想通りの強い風だ。HはSと、私がOとアンザイレン(ザイルで結び合う)し、コンティニュアス(滑落などに備えながら同時に動く)ですすむ。ルート自体は広い岩稜なのだが、万が一風にあおられた時のためのザイルだ。耐風姿勢で風を凌ぎながら、風の呼吸の合間に体を起こして前に進む。氷とも小石とも解らない粒が降り注ぐ。小屋より上部は高度順化ができていないだけに、呼吸が苦しい。 1時間ほど登ったところで諦める。じりじりと進むことはできるが、このペースではとても今日中に登頂することは無理だ。無理ならば、これ以上登っても仕方がない。小屋に下る。 アイゼンもザイルも付けたままで、小屋に転がり込む。敗退。 30分ほどしてドイツ人も戻ってくる。彼は岩稜を越え、雪原の入口までは辿り着いたらしい。しかし、雪原は地吹雪で諦めざるを得なかった、と言う。やはり、この風ではそこがポイントなのだ。彼は寝袋をザックに詰めると、そそくさと下っていった。ヨーロッパのガイドは行動も寝るのも早いが、諦めるのも早かった。 私たちはもう一日粘ることにする。立てば頭がつかえるような狭い小屋で一日を過ごす。小さな窓から外の眺めていると、頭の中を様々なことが去来する。家族のこと、一緒に計画を進めながら都合がつかずに参加できなかった仲間のこと、これまでに次々と起きた予定外の出来事…。すべてが明日で決着する。それも自分達が主体的に左右できるわけではなく、風が収まるかどうかという自分達には手の届かないところで決まってしまう。 しかし、それもまた、この遠征の流れなのだ。そう思わざるを得なかった。 #
by organic-cambio
| 2024-10-22 17:18
| 店主の雑言
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