私は最近まで、鯨を食用とすることに肯定的であった。なにせ、鯨の焼肉がビフテキというものだと信じていたくらい、鯨をたくさん食べて育った世代なのである。海に囲まれた島国のヒトビトが、周りの海にいる鯨を捕って食べて何が悪いのか。この国のヒトビトは、江戸時代から鯨を捕って食べてきたのだ。鯨を食べる文化があるのだ。鯨を捕まえて殺し、油だけとって捨てていたような連中に、いまさら野蛮な国だといわれる筋合いはない。というかなり感情的な根拠によって、鯨を食べることを肯定していた。
どうもそれは撤回しなくてはならない、と最近は思うようになってきた。
江戸時代から捕鯨がなされてきたことは、確かにそのとおり。ただし、その時代は沿岸に鯨がやってくるのを待ち、手漕ぎの和船を何十艘も繰り出して鯨を捕まえるという「鯨との戦い」であった。そうして命がけで捕らえた鯨だから、海の神様に感謝しつつ鯨を食べる文化として大事に受け継がれてきた。
それに比べ、まだ成長段階の私たちが食べていた鯨は、はるか南氷洋で捕れたものだった。大きな会社が巨大な船を何隻も持ち、捕鯨船団として地球の裏側まで出かけて捕っていたのだ。石油燃料を使って、領有権のない海で泳いでいる鯨を捕まえ、冷凍して持ち帰ったものを食べて、それが鯨を食べる文化などといえるのか。すきっ腹を満たしてくれたことへの、単なるノスタルジーではないのか。
食べ物が巷にあふれる今、調査捕鯨などとおかしな名目で鯨に固執することもあるまい、と思う。それよりも、鯨と同じ行く末をたどろうとしているマグロを案じるべきなのだ。このままたくさん捕り続け、無自覚に食べ続けると、やがてマグロの刺身も高嶺の花になってしまうだろう。海の資源には絶対的な限りがあり、それは自分たちだけではなく世界全体の「資産」なのだということを、私たちは鯨から学ばなくてはならない。
2008/2/12