先週の「家族の勝手でしょ!」(岩村暢子著・新潮社刊)を読んで、のつづき。
八百屋のオジサンから客観的にみると、主婦がオバサン化していく過程には、だいたい自己中心的発想が大きく作用している。その下地は家庭という小さな世界を、自分の都合で切り盛りするところから生まれてくるように思える。このあたりのように2世代、3世代が同居する家とは違い、首都圏の核家族では自分の都合に口を挟んでくる相手がいない。だから、野菜が嫌いでも調理が面倒でも、とりあえずの食事ができれば何とかなる。本来は子供のためを考えれば、こんな食事ではいけないということが分かっていながら、自分の都合を優先してその場しのぎを重ねる。
夫という男は、会社という社会から離れると途端に依存性の強い甘えん坊に逆戻りしてしまうから、家では自分の好きなものばかりを食べたがる。お昼は会社の近くで外食する場合が多いから、好みが脂っこいものに偏り、夜も脂っこいおかずを求める。野菜の煮ものなんか作ったって箸もつけない。
母親も父親も、家庭という単位ではなく、自分の都合や欲望を中心に物事を考えていると、食べ物はどんどん安くて簡単なものばかりになっていく。その結果、ぞんざいな食事で育った子供が増える。
本のタイトルのように、どん食事をしたってそれは家族の勝手なのだけれど、家族というユニットはやがて発展的に分散していく。食事は頭ではなく体にしみこむ記憶になるから、ぞんざいな食事で育った子供が大人になって、こんな食事ではだめだと目覚める確率は低い。夫婦のどちらかだけがきちんとした食事を心がけても、片方に関心がないと食事の努力は報われにくい。そして、食事をぞんざいにする子供が再生産されていくことになる。
経済では悪貨が良貨を駆逐するといわれるように、食事でも悪食は良食を駆逐する。良と悪という対比ではなく、形のあるものとないものと考えてもいい。形を保つには常に努力が必要だけれど、形はいったん崩れ始めたらとめどなく崩れていくし、崩れるものを止めるのは形を保つより数倍のエネルギーが必要だからだ。黒に白を混ぜた時と、白に黒を混ぜた時の差のようなものだ。
食べることをぞんざいにした結果、体に不具合を生じさせるひとが増え、それは社会保障費を増やすことになって「食育」などという言葉がもてはやされるようになった。でも、食事というものはいくら頭で考えたって、何回講習を受けたって、簡単に身に付くものではない。風土と家庭が時間をかけて体にしみこませるようにして身に付くものなのだ。子供が飲まないから味噌汁はもう作らない、ではなくて、子供が飲まなくても味噌汁を毎日作り続けて体に覚えさせるのが親なのだ。
「そんなこと言ったって…」というぼやきが聞こえてきそうだけれど、これは間違っていない。
2010/8/3