恥ずかしい話だけれど、この50過ぎのいいトシになっても、墓の中がどうなっているのか知らなかった。墓石の下に骨壷を納めるのだろうけれど、あの大きな墓石をどうやって動かすのか、その墓の中はどうなっているのか、何も知らなかったのである。
そこで、父の納骨に際しては、その中をしかと見ておこうと思った。菩提寺での法要が終わり、お骨を抱いて墓地にやって来ると、すでに石屋さんが墓を開けて待っていてくれた。石屋さんは墓誌に戒名や行年を刻むだけでなく、お骨を納めて墓を閉じるまでが仕事になるのだ。地震で墓石がズッコケたのも、ちゃんと直しておいてくれた。
墓石の前に香炉が置いてある平たい石を動かすと、そこが墓の入り口だった。なあんだ。中を覗き込むと、50cmほどの深さに枡が切ってあって、下には砂が敷いてある。その枡の中に一段だけ棚が切ってあって、そこに骨壷を納める。なあんだ。
これが何十代も続く素封家の墓であったら、得体のしれない骨壷やらなんやらおどろおどろしいものがいっぱい入っていて、開けた途端に霊気とも妖気ともしれないものが漂って来て、中に入ったら最後出てこれないような気がするのだろうな。でも、わが父の墓は20年前に建ててあったものの、初めてお骨が入る新築のようなものだから、下水の浸透枡に骨壷を置いたような素っ気なさだった。
納骨を終えてお寺に帰る途中で、私は子供たちに向かって言った。「いいか、オレはあの墓には入らないからな」。誰かが小声で「また言ってるよ」と囁いたが気にせずに続けた。「オレは自分の名前を石に刻んで残すなんてことはイヤだからな」。一緒に車に乗っていた義理の父が怪訝そうな顔をしていたが構わずに続けた。「オレの墓は墓石の代わりに木を植えてほしい。ナラとかトチとかクヌギのような広葉樹がいい。それで50年ぐらいたって太くなったら伐って薪にしてストーブで温まれ」。すかさず妻が「枯れちゃったらどうすんの?」と水を掛けてきた。「全身毛虫だらけになって葉っぱが食われちゃってもいいの?」、「秋になって葉っぱが落ちると周りから文句言われるよ」、と次々に異論反論が湧いてきてしまった。
そうか、墓が石でできているのは、いつになっても風化しないという利点だけでなく、手入れが最小限で済むということも理由なのだな。死んじまったヤツのことなんかいつまでも面倒なんか見ていられるか、ということでもあるのだな。う~ん、オレとしてはつまらぬ墓石などを建てたくはないから、木になり替わろうと思ったのだけれど、死んだあとにどうせよということを言い残すこと自体が、そもそも、子供たちにとってはいい迷惑なのだな。
でも、真っ暗なコンクリートの枡の中に置いておかれるくらいなら、山のお花畑に骨を粉にして撒いてもらったほうがいい・・・、あ、これもまたいい迷惑なのか。