先月の末、縁あって茅野の別荘地に住むKさんが輸入しているドイツの離乳食とパスタを扱うことになった。Kさんにはドイツ人のお連れあいとの間にかわいい二人のお子さんがいる。商談のために店に見えたときは上の女の子が一緒に来たのだが、この子の自己主張がなかなかスゴかった。2~3歳の子だからまだ何でもやりたい放題のお年頃なのだけれど、ちょっと日本で暮らす子とはそのスケールが違う。ひと時もじっとなんかしていないし、ありとあらゆるモノやコトに興味を示しては要求する。前に来たときは研ぎ屋のおじちゃんがよく遊んでくれたので、さっそくそばに行ったのだが「おじちゃん寝てた」と戻ってきた。そりゃあ研ぎ屋のおじちゃんだって、あなたの前では寝たふりをしたくなりますよ◆気遣いを美徳とするこの国では、そんな振る舞いを傍若無人といって眉をひそめる人が多いのだけれど、欧州のように自己主張が自分を守る方法と考える国では、子供といえども自己主張をすることが当たり前なのだ。自分たちはこうありたい、こうすべきだ、そのために自分はこうすることができる、というようなことをどんどん主張する。相手の考えていそうなことを読んで、言うことを控えたり回りくどい言い方をしたりなんて一切しない。空気を読むなんてことは曲芸の一種だと思われる◆そんな人たちが集まって物事を決めようとすると延々と主張が繰り返されるのだが、最後に誰もが一票を投じて多数決で決めたことには反対した人も文句を言わず従うのだそうだ。今も欧州の田舎の村では全体会議で物事を決めているところがあるらしいが、そんな主張と主張のぶつかり合いの治め方として発達してきたのが民主主義というものなのだろう。世界中でその言葉を冠した物事の決め方がなされているけれど、その暮らし方や歴史や文化の違いでずいぶんと都合よく使われているように思える◆話は変わるけれど、私は高校、大学ともかなり自由度の高い学校に通わせてもらった。とくに高校は何でもやりたい放題に近く、そのおかげでずいぶん楽しい思いも苦い思いもすることになったのだけれど、15歳から18歳の子供たちに自由というものがどれだけ理解できたのかと考えると、それは今もかなり疑問だ。ロン毛に背広の制服を着た少年たちは街中で年齢不詳正体不明だったが、果してそれが自由というものだったのかどうか。やりたい放題を自由というのであれば、何でも見境なく好き勝手にやることとどこが違うのか◆言葉としての自由は束縛の対語であるけれど、解釈での自由は勝手の類語とされることがこの国では多い。本来はそこに明確な違いというものがあるはずで、その違いを意識して使わなくてはならない。逆に言えば、いかに勝手な振る舞いが自由という言葉に置き換えられてしまっているかということ。そこに民主主義という美辞麗句が乗っかると本当に始末が悪い。最近は子供たちが世の中を知るときにこれほど醜い手本はない、というやり方で物事が決まっていく。これをわれら大人たちがいつまでも良しとし続けてはならないと思う。