先日読んだニュースによれば、日本では子どもの出生数が大幅に減っていますが、フランスでは今も増えているのだそうです。理由としての仮説は、子育て中の夫婦で男性の育児や家事に関わる時間が日本の倍近くあることを挙げていました。共働きの家庭が多いフランスでは、家事や子育ても夫婦が平等に分担しあうのだそうで、それが子どもの育て易さにつながっているというのです。男と女などという以前に、自由という概念が極めて徹底している国ですから、単純に日本と比較はできませんが。
日本では子どもの出生数が少ないことに危機感を抱いている人が多いのですが、具体的で有効な手立てがなかなかないのは、それを考える立場の人たちに育児という経験が少ないからだ、という仮説も成り立ちますね。もう一つ言えば、制度や政治にかかわる人たちに、子供を育てることに希望や楽しみを感じたことがない人が多いということも言えるでしょう。立身出世や社会的な競争、経済的な成功は、命を育むという毎日の情緒にあふれた営みとは対極にあると考えている人が多いからでしょう。
まいにち子供を保育園に送って行き、学校での催しにも積極的に参加して、休日は食事の作りお気に余念がないような人たちが制度や政治の中枢を担うようになれば、変わる可能性が出てくるでしょう。子育てや暮らしを楽しむ男がもっと増えて、若いママがすべてを一人で抱え込むワンオペではなく、子どもを含めた毎日の暮らしを楽しめる余裕があれば、子供はもっと増えるんです。今のジジイたちが凝り固まって振り回している昭和的価値観では、もう子どもが増えるなんてことはあり得ません。
日本にはかつて家父長制というものがあって、家のことはすべて父親に決定権がありました。私たちの世代を育ててくれた大正から昭和ヒトケタ生まれの人たちには、その価値観の名残があって、男の子は家を継ぐものだから大事に育てるという意識があったようです。その大事に育てられた人たちが今やジジイとなって、いまだに自分たちはエライと勘違いをして権力を振り回している。パラダイムが変っても、自分たちに察知するセンサーがないから理解できず、問題を解決することができない。
子どもを産み育てる世代になったわが息子や娘たちの世代には、私たちにはなかった子育てへの不安があるのだろうと推察しています。例えば、日常生活の中で待つということが極端に少なくなりました。コンビニやスーパーのレジで、あるいは電車がトラブルで送れたりするとキレる人が多いのは、待つことに慣れていないことがあるのではないでしょうか。でも、子育てに一番必要なことは待つことです。できるように教えるのではなく、できるようになるまで待つことです。それができるかな?