先週は地元高校生や大学生と一緒に話をする機会があり、いたく刺激を受けました。地元出身ではないので地域に先輩も後輩もおらず、組織に所属することを頑なに避けてきたので、年齢差のある人たちと話をする機会はほとんどありません。最近になって、春市/秋市の企画を通してかなり年齢差に幅のある人たちと一緒にテーブルを囲むようになり、歳の差の刺激を楽しめるようになってきました。
あるていど歳を取った人間は、ワカモノの話を聞くと自分の経験を投影してアドバイスをしたがります。それは大変聞き苦しいので、彼らの話を聞くだけにしようと心に誓ったのにもかかわらず、やはりしゃしゃり出て演説をしたのでした。そのきっかけは、彼らの話を聞いて迷うことなく突っ走るべきだと思ったから。まさしくかつての自分を投影して、突っ走れ!と演説をしていたのでありました。
何ごとも新たに始めようとするときは不安が伴います。でも、その不安を上回る期待を持つことができるのは、若さの特権なのです。考えこんだらできないことでも、始めてしまえばやるっきゃない。川を跳び越すのに向こう側の着地点が見えていなくても、まずは跳んでしまうのだ。ぬかるんでいたって石がゴロゴロしてたって、若くて関節が+-柔軟で足腰の筋力があれば、なんとかなるものなのだ。
向こう河岸を見ずに川を跳び越すのは、私が縁も所縁もない岡谷の街に移住して店を始めたようと決めたときに、いつも抱いていたイメージでした。何のことはないさ、言葉が違うわけでもないし、通貨が違うわけでもない。みんな同じように野菜を買って暮らしているんだから、どこの街だって商売はできる。向こう河岸のことをあれこれ知ってしまうと臆病者は跳べなくなる。いまだ、跳べ!と。
それから四半世紀経って、やはり跳んでよかったと思うのです。楽なことばかりではなかったけれど、知らない街で手探りをしながら店を続けるのは大変だったけれど、それを上回る楽しさや発見があった。この歳になって思うのは、何よりも若くなければ跳べなかった。できるかどうか考えていたら、きっとできなかった。まずは跳んでからどうしたら続けることができるか考えてきたから、今がある。
だから彼らに言いたかったのです。まずは始めよう、と。お金や時間を理由にしていると、いつまでたってもコトは進まない。モノゴトは始めなければ進まない。変に講釈したがるジジイは時々いるけれど、授業だと思って聞いていればいい。間違っていないと確証を持ったなら、何でもやってみようよ。ワカモノたちが始めたことを大人は無碍に見捨てたりはしない。少なくともオレはそうしない。