高校から山岳部で山に登り始めてひと通りの登り方を経験しましたが、性根が臆病なので危険を冒すことは避けてきました。それでも30歳になるまでに多くの先輩や後輩が命を落とし、数えてみたら片手では足りない。写真家の荷物持ちに参加した際に大判カメラで撮った集合写真のうち、生きているのは写真家と私だけだったりすると「早くこっちに来いよ」と言われている気がしないでもない。
遭難の知らせで現地に駆け付けると遺族の方が労いの言葉をかけて下さるのですが、その悄然とした姿に逆に自分が仲間として申し訳ないことをした気分になりました。今はあの時の遺族の方たちと同じような歳となり、気持ちが痛いほどわかるようになってきた。海外遠征に行く時に、万一の際は対応をすべて隊長に任せる、という念書に判を押した自分の親の気持ちもよくわかるようになってきた。
南米の山に一緒に行った後輩のOは、当時まだ18歳でした。父親が早くに亡くなったので誰彼なく父親代わりを求めている節を感じていましたが、南米から帰ると先鋭的な登り方に憧れてヒマラヤの未踏峰に行き、雪崩に埋まって帰って来なかった。母一人子一人だったからお母さんの気持ちは察するに余りあります。止められなかったのかと自問したけれど、突っ走る若い男は止めようがなかった。
先輩が亡くなると星になっていくのを見上げる感がありますが、後輩が亡くなるとどこか責任を感じるものです。高2の時には後輩が自宅で突然死してしまい、トレーニングの翌日だったために無理を強いたのではないかと自責の念に駆られたこともありました。山を登ってきたおかげでカラダはかなり鍛えられましたが、メンタルも多少ならめげずにスルーしてしまえるように鍛えられたと感じます。