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雑言バックナンバー 2009・10月 アンデスにて 15(最終回) 1月13日。風は収まるどころか、更に強くなってきた。これは季節の変わり目に来たようだ。 昨日の行動でわかっているだけに、もう可能性を探ることもない。 すべては終わった。登頂失敗。下山にかかる。 インディペンデンシア小屋から、C1へ。C1を片付け、すべての装備を担ぎ、一気にBCまで下る。C1を片付けながら、この間すれ違った日本人K氏が、頂上の直下にテントを張ってもう2ヶ月あまりもそこに「住んで」いる奴がいた、と言っていたことを思い出す。その男はようやく頂上に辿り着いた人たちに「少しでもいいから食糧を置いて行って欲しい」とせがむのだそうだ。この風の中、その「住人」はどうしているだろうか。 BCに下る途中、下からTが登ってくるのに出会う。日程からして今日が行動最終日になるので、C1で出迎えるつもりだったようだ。5人でBCに下る。BCより上部で5人が揃って行動するのは、これが最初で最後になった。 夕方、BCに着く。ここでは風が吹いていない。C1から下ろしてきた食糧や装備を片付けていると、となりのメンドーサ大学のテントから大柄な男がやってきた。流暢な英語で「私はとてもあなたに感謝しなくてはならない…」と言う。あの意識不明で私たちのC1に転がり込んでいた男だった。ヘリでC1からメンドーサの病院に運ばれたのだが、すぐに回復したのでまたBCまでやってきたのだ、という。いまさらここまでやってきても、これから頂上を目指すのは無理だ。わざわざお礼を言うために、またBCまで登ってきたのだろうか。
1月14日。朝、BC一帯は雪に覆われる。雪を踏みながら、のんびりとBCを片付ける。下りは一日で「インカの橋」まで下りてしまうので、明日の朝の出発で十分間に合う。メンドーサ大学パーティも片付け始め、BCのテントの数も大分減ってきた。
1月15日。ムーラ3頭に荷物を積み、私たちは歩いて「インカの橋」に向かう。相変らず炎天下の河原だ。コンフレンシアの渡渉では、対岸に居たアメリカ人パーティにザイルを投げ、お互いにチロリアンブリッジで渡る。むかし、トレーニングでやったことがあるだけのチロリアンだったが、初めて実戦で使うことになった。何でもやっておくと、忘れたころに役に立つものだ。 河原のお花畑の花は、もうすっかりと咲き終わっていた。オルコネス谷から振り返ると、アコンカグアが夕日に染まっている。大きな山だ。旗雲がなびいている。雪のある頂上付近はまだ風が強いのだろうか。
1月16日。バスでメンドーサに。ワインが特産の、どことなく南欧ようなの雰囲気の街だ。アルゼンチンはヨーロッパからの移民が多い国だからなのだろう。道のあちこちにカフェがテーブルを出している。夜の9時になろうというのに、町の中は人でごった返している。この国の習慣では午後のシエステの後、夕方から夜の8時ごろまで仕事をし、それから夜中に近い時間までが夕食タイムなのだ。 そのカフェのテーブルに5人で陣取り、ビールを注文する。登頂に成功した後であれば祝杯となるのだが、無事に下りてきただけで祝杯というわけにもいかず、意気の上がらない乾杯となる。今回の遠征は、Tの高山病に始まる予定外の行動に終始するうちに、登頂の機会を逃してしまった。決定的だったのは、高度順化が済んだ後で一度BCに下りたことだろう。若いOや体調をうまく保っていたSにとっては、不満の残るであろう結果になってしまった。しかし、彼らにはまだ何度となく海外に出るチャンスがあるだろう。 ビールがうまい。インスタント食ばかりが続いていただけに、食べるものすべてがうまく感じてしまう。カフェのテーブルは道路の歩道にあるので、目の前を人が歩いている中での食事だ。回りで常に人が動いているというのは、慣れないだけに目が回るようだ。「セルベッサ・ポルファボール(ビールを下さい)」と、ボーイを呼んでビールをおかわり。 久々のビールだけに、回るのが早い。目が回る様に見えるのは人がせわしなく歩いているからだと思っていたのだが、それにしては変だ。テーブルも回っている。おかしい。急に本格的に目が回ってきた。耳元で聞えていたさまざまな音が、遠くなっていく。まずい…。これはぶっ倒れる前兆だ。歩道を背にして座っていた私は、急いでどこか横になれる場所を探した。すると歩道の向こう側にビルの入口があり、そこが広くなっているのが見えた。フラフラと立上がり、歩道を横切ろうとしたが、そこで意識が切れてしまった。 かなりの時間、人通りの激しい歩道を塞き止めるようにして、私は意識を失っていたらしい。やがて、耳に音が甦ってきた。「アンビュランス(救急車)を呼べ!」という大きな声がする。英語で「私は医者だ」と名乗る人まで現れた。これはまずい。大騒ぎになってしまった。ほとんどまともに意識が戻ってきたが、これではとても起き上がることはできない。傍らにいるHに日本語で「もう大丈夫だ。人払いをしてくれ」と頼む。Hが身振り手振りで必死に大丈夫だ、と伝えようとしている。私はもうしばらく騒ぎが収まるまで、路上で死んだふりをしていることにした。
アンデスにて後日談 アンデスに出かけて以来すでに長い年月が経過し、生まれたばかりだった長女は店のスタッフになっています。もう充分に遠い昔の話となってしまったこの登山の記録を、なぜ今になってまたほじくり出したのかといえば、ちょっと虫干しをしておこうかということだけで、深い理由なんか特にありません。長い連載となってしまい、退屈だったこととお察し申し上げます。 これを登山の遠征記録と読むのか、38年前の旅行記と読むのかは微妙です。それは今だから微妙なのではなく、当時としても旅行なのか登山なのか微妙だったのではないか。それが登頂できなかった最大の原因なのではないか、と今回読み返して思うようになりました。 さまざまな予定外のトラブルが続いたとはいえ、どうしても登頂という結果を持って帰らなくてはならない、と常に感じて行動していたのなら、最後のチャンスで一旦BCまで下りることはしなかっただろうと思います。自分に子供が生まれたことなどで、どこか甘さがあったように思えるのです。 計画を立て始めた当初とは参加するメンバーも変わり、経験の浅いもの、年齢の高いもの、さらには夫婦まで含めた渾然一体となったメンバーとなりました。その一人一人が考えていることを慮る余地が足りなかったのではないか、と当時の自分に問うこともできます。しかし、今になっても十分にできないことを38年前になどできるわけがなく、人間としての力不足がまざまざと文中から浮き出してくるのでした。
メンバーだったTは文中では敬称も付けませんでしたが、私が高校生時代の山岳部顧問であり、私たち夫婦の仲人でもある恩師です。顧問になってから山を登り始めたので、経験では私たちの方が豊富になったため、顧問でありながら隊員として参加しました。 最年少で当時18歳だったO君は、この数年後にヒマラヤで雪崩に埋まって還らぬ人になりました。母一人子一人だった母の元には遺髪さえ戻らず、大変悲しい結果になりました。父親代わりを求めて、青年期の湧出るような情念をいつも年上の者にぶつけていた彼は、結局よい相手に恵まれず、薄い障子のような壁を突き破って、向こう岸にまで飛んで行ってしまいました。アンデスでの不完全燃焼が、彼の情念に油を注いだのかもしれません。 アタックの際にC1近くで出会ったKという日本人は、その後冒険家として注目を集めた河野兵市氏で、彼も2001年に北極海から歩いて日本を目指す途中で、氷の割れ目に落ちて亡くなりました。
by organic-cambio
| 2024-10-30 16:13
| 店主の雑言
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