カテゴリ
最新の記事
以前の記事
2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 05月 最新のコメント
検索
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
もう20年も前のこと。「手首ラーメン事件」という出来事があった。それは、ヤクザが不義理を働いた手下の手首から先を切り落とし、その手首を屋台のラーメンのスープに煮込んでしまった、という事件だった。
その頃、私は屋台のラーメンを夜な夜な食べあさっていた。東京のはずれの道端には、どうみても営業許可とは縁のなさそうな怪しい屋台が、あちこちに出没していた。毎晩同じところでやっている屋台は、保健所ではなくヤクザの営業許可があるようで、時々それらしきお兄さんが見回りに来ていた。 私が贔屓にしていたのは、自衛隊の練馬駐屯地近くの環八通りの屋台。電気は発電機で、丼は大きなポリバケツの水をかけて洗うだけ。昼間に見たらとても食べる気にならないような不衛生さではあるが、そもそも屋台とはそんなもの。気にしていたらラーメンがまずくなってしまう。 その屋台は東京に圧倒的に多い醤油味ではなく、何味と表現するのが難しいような白いスープのラーメンだった。屋台には、麺を茹でるお湯と、得体の知れないものがグツグツと煮込んであるスープと、大きな釜が二つ並んでいる。スープの釜にはいつもふたがしてあって、スープをすくう一瞬しか中を見ることはできない。麺を茹でている間に丼に濃縮スープの素を入れ、そこに釜のスープを網で濾しながら注ぎ込む。時々野菜のかすや動物の骨のようなものが網に引っ掛かり、それはまた釜に戻される。「その中、何が入ってんの?」と聞いても、屋台のおじさんはにやにやしながら「いろんなもの」とだけ答えるのだった。 ちょうどそんなころに「手首ラーメン」の事件が起きた。あり得る話だ。屋台の常連の私は驚きもしなかった。あの釜の中に入れられたら、残るのは出がらしの骨だけ。これは推理小説のトリックにも使える。 事件の後、環八通りの屋台でも「おじさん、その中に手首入ってない?」という客がよく見受けられた。屋台のおじさんは「うん、入ってるよ。だから旨いんじゃないか」と慣れた様子でかわしていた。ところがある晩、数人のサラリーマン風の男達が、しつこく「手首を見せろ」と絡んできた。そこでおじさんが、一発を仕掛けた。人数分のラーメンを作り終えると、「そんなに手首を見てみたいか」とその筋の声になり、スープの釜からある物をすくい上げると、男達の方に投げつけたのだ。夜中の道路に、ひじから先の手首のような骨が跳ねた。私はただでさえ油でギトギトの丼を、思わず落としそうになった。これから食べようとしていた男達も、声を上げて飛びのいた。 屋台のおじさんは鼻歌を歌いながら、暗がりのポリバケツから水を汲んで、丼を洗いはじめた。道路に転がっているのは、鶏の足だった。 2002/6/18 ▲
by organic-cambio
| 2010-05-30 09:00
| 店主の雑言
|
Trackback
|
Comments(0)
2日続きの雨であった。しかし、その雨量が県内各地で5月の観測史上最大雨量を更新したことを知ったのは、家に帰り着いてからであった。新緑に風薫る5月のカードの裏側には、激しい雨風のメイストームが潜んでいるのである。
この月曜が雨になるであろうことは予め分かっていたので、早々と雨の日向けの行き先を用意して待ち構えていた。安曇野のパン屋「コッフェル」の荷に入っていた古新聞に、南木曽にある洋館が載っていたのである。妻籠宿の一角に明治の中ごろに建てられた御料林管理事務所だったというその洋館は、なんと中に留置場まであるというので興味が湧いた。今は移築されて、木曽川に架かる桃介橋のたもとで「山の歴史館」として公開されている。 伊那谷から権兵衛トンネルで木曽谷に抜け19号を川下へ下って行く。雨は小止みになってきたが、上松を過ぎて木曽川のほとりを走るようになると、川の濁流に目を奪われた。大増水である。大蛇がのたうちまわるような奔流なのである。 ![]() 国道で桃介橋をくぐり、山の歴史館に向かう橋の上から、巨大な茶色い大蛇を望む。橋の上に車を止めて降りようとすると、後ろから「なんでこんなところに止めるのよ…」というカミさんの恨めしげな声が聞こえた。この絵には見えないが、ちょうど絵の中ごろの上に大きな吊り橋の桃介橋が架かっている。この暴れ狂う大蛇の上を吊り橋で渡れるなんてなんという僥倖なのだ、と私は嬉しくて仕方がないのだけれど、すでに恐怖に駆られて車から一歩も降りようとしないカミさんの前では、とてもそれを口にはできなかった。 ![]() 100年余を経た洋館の佇まい。窓や軒下の装飾、玄関柱のレリーフなど、皇室の御料林を管理するための建物だっただけに、手の込んだ装飾が施されている。中には木一本首一つと言われた時代の留置場が本当にあった。 ![]() こちらは福沢桃介が建てた別荘。今は桃介の記念館になっている。熱心に説明をしてくれるおばさんがいて、福沢諭吉の娘婿だった福沢桃介と、お妾さんの貞奴については随分と詳しくなった。明治という時代はやはりすごい時代だったと思うのは、大きな富を握った人のやることのスケールが、とてつもなく大きかったということである。 ![]() そしてこれが桃介さんが、発電所建設のための人や資材を運ぶため、大正11年に私財で架けたという桃介橋。コンクリートの橋脚は当時のままだが、木製の桁は平成になってから架け替えられた。今日はこの吊り橋で木曽川を渡ってみようというのだけれど、果たしてカミさんが渡れるかどうか・・・。このめったにない大増水中の、しかも吊り橋だぞ。7年前の夏に、やはり大増水中の四万十川の沈下橋でも、怖くてただひとり橋のたもとで待っていたくらいだから。 ![]() ・・・怖い・・・。絶対に揺れない橋桁の上で、カミさんの足は止まってしまった。橋はほんの気がつかない程度に微妙な揺れ方をする。踏み板の両脇からは奔流がのぞき見える。怖いから下を向くと、余計に怖い。橋の上から濁流をのぞいていると、吸い込まれてしまいそうになる。これは橋恐怖症のカミさんでなくても十分に怖い。 ![]() カミさんの手を引き、橋を渡る。足の下でのたうち回る木曽川大蛇。「あーっこわい!下が見える!吸い込まれる!あーっ揺れてる!落ちる!助けてー!」。絶叫も濁流の轟音にかき消されてしまう。途中でカミさんが橋を渡る姿を証拠写真としてカメラに収めようとしたのだけれど、「手を離したら離婚するぞ! 後ろから川に蹴落とすぞ!」などとありとあらゆる脅し文句を繰り出して威嚇し、握りつぶさんばかりの力で手を握って離さなかったので、果たせなかった。 ![]() 無事真ん中の橋脚まで渡り終えて橋を振り返る。カミさんもここから先は橋の下が地面なので落ち着きを取り戻した。まあ、よりによってこんな日にこんな橋にやってくるとは、なんという巡り合わせなのだろう。この2日間の雨量は上流の御嶽山で300mm近くに達していたという。 ▲
by organic-cambio
| 2010-05-27 17:28
| 戯れ道中
|
Trackback
|
Comments(0)
頭のてっぺんから泡が吹き出した話のつづき。
20年も前のある晩のこと。同じ店で仕事をしていて、その数年前に入植した飯田市の吉沢さんのお連れ合いと電話で話していた。彼女は以前、茅野で週末だけ東京から通いで八百屋を開いていたことがある。何かの拍子で彼女が「これからどうするつもりなのか?」と私の身の振り方について尋ねてきた。まだ漠然としていたものの、信州に行って店を始めたいという希望が胸の奥深くにあることを自覚していたので、その旨を話すと吉沢さんのお連れ合いは極めてはっきりとした口調で、「茅野ってすごくいい所よ」と言った。その瞬間、私の頭のてっぺんで「シュポン!」とビール瓶の栓を抜く音がしたような気がした。それからしばらく、自分の胸の奥深くで発酵を続けていたある希望が、その瞬間に時が満ちてビールの泡のように体の中から吹きあがってくるような感覚に襲われた。 その泡はとどまることなく吹き続けて、もう自分では止められないほどの勢いに感じられた。勤めていた店から家に帰ると、妻と子供たちはもう布団で眠っていた。頭から泡を吹き続けている私は、眠りに入ったばかりの妻を「ちょっと話がある」と起こして憑かれたように一気に話をした。「信州に行こう。向こうで店を開こう。来年の春にA(長女)が学校に上がる時までにやろう」と。 子供と安らかに寝入っていた妻は、いったい何が始まってしまったのか私には見当がつきません、という顔をして聞いていたが、頭から泡を吹き続けてしゃべる夫にいま抗ったところでどうしようもない、と悟って話を聞くだけ聞いておくことにしたのだそうだ。それから突如として移住・開店計画が始まり、1年後には岡谷で店を構えるにいたった。 あとになって、吉沢さんのお連れ合いにその時の話をすると、私はかなり以前から信州に行って店を開きたい、という希望を口走っていたらしい。自分では他人に話をするほど身体の中で発酵が進んでいるという認識はなかったのだけれど、他人からは瓶の内圧は相当高まってふたが盛り上がっているように見えたのかもしれない。 思えば、泡が吹き出すまでの瓶への仕込みは、はるか前から始まっていた。小学生のころから専業農家だった父の実家で畑仕事を手伝ったりしてため込んできたエキスに加え、高校から始めた山登りで信州の奥深くに入り込んだことが酵素の宅割を果たし、有機八百屋という街で自然を語り野菜を商う仕事が畑や田舎に向かう気持を高めて、一気に発酵が進んで頭から泡が吹き出してしまったのだ。 おまえは何でも他人の言うことをきかないで、自分の都合ばかりで生きてきたからそうなるのだ、と言われればその通りと認めざるを得ないけれど、頭から泡を吹いてしまうかどうかは別として、人間は体験を詰め込むビール瓶のようなものなのだから、内発的な動機で自分独自の仕事を作り出そうという場合は、瓶の中の発酵が弱ければ絶対に長続きしない。だから、こんな店が18年も続けてこられたのは、ひとえに店主の頭から泡を吹くほどの発酵があったからに他ならない、と思うのである。 2010/5/25 ▲
by organic-cambio
| 2010-05-25 17:01
| 店主の雑言
|
Trackback
|
Comments(0)
日曜日を営業するようになって2ヶ月。すなわち月曜日が休日になって2ヶ月。どこに出かけてもすいていてなかなか月曜の休日というのもいいもんだ、と思ってやっぱり2ヶ月が経った。
今まで日曜の混雑がいやでなかなか行くことのなかったところにも臆することなく出かけるようになり、今までとは休日の過ごし方がずいぶんと変わってしまったような気がする。なんといっても子供たちは学校に行っているので、夫婦だけの休日なのだ。それは週一日だけリタイア後のシルバーな毎日を先取りして経験しているようで、ああ金さえ十分にあれば温泉に浸って好きなものを食べ歩くような日が続くのも悪くはないな、と恐らく叶わないであろう甘い夢を描いてみたりもする。 温泉といえば、もう10年も前のこと。新潟の海から帰ってくる途中で白馬村の国道の脇にある「白姫温泉」とかいう名のショボい温泉に入ったことがある。金を払って中に入ると、姫川を望むがけっぷちにセメントで塗りたくった露天風呂がいくつか掘ってあるだけの無愛想さ。驚いたことに洗い場も露天のままで、男湯と女湯は板塀一枚で仕切られただけであった。 かなり熱めのお湯に日焼けで火照った身体を無理やり沈めて温まっていると、やがて女湯から悲鳴が聞こえてきた。「ぎゃっ、痛い!」 何ごとかと様子を窺っていると、頭上を黒い物体がブンブンと音をさせて飛び交っている。アブが襲ってきたのだ。日の暮れなずむ夕方の河原に裸体を並べていれば、アブに餌をやるようなものではないか。あっという間にアブの数は増え、女湯は阿鼻叫喚、男湯はフルチンでタオルを振り回す戦場のような有様となった。 ほうほうの態で脱衣場に逃げ込み服を引っ掛けて表に出ると、「使いますか…?」と温泉の主らしいおっさんがキンカンを持ってにたにたと笑いながら立っていた。ちょうど身体を洗っている最中のアブの襲撃を受けた妻は、何発も刺されたあとにキンカンをすり込んで怒りのあまり「二度と来ないからね!」とうめくように罵った。 この「白馬アブハチ温泉」のことは、今もって笑い話として家族の間で語り継がれている。数年後に同じ場所を通りかかると、この危ない温泉はすでに跡形もなくなっていた。 2005/5/31 ▲
by organic-cambio
| 2010-05-23 17:46
| 店主の雑言
|
Trackback
|
Comments(0)
奥裾花は、3年ほど前の同じ時期に訪れたことがあった。目的地としてではなく、いつもの彷徨の果てに辿り着いただけであった。その時は歩く支度をしていなかったので、戸隠山を眺めながらふきのとうを摘み、新緑を眺めただけで帰ってしまった。水芭蕉の咲く残雪期の湿地帯を歩くのだから、当然足回りは雪と泥に耐えられなければならない。ふだん履きのスニーカーでドロドロになるのは、惨めというよりひどくみっともないと思ったのである。そこで、今回はしっかりと足元を固めてやって来た。トレッキングシューズではない、ごつい登山靴でもない、残雪期の湿地帯やブナの森に入る時はこれ、長靴が威力を発揮するのである。
店を11時に出て高速で豊科へ。オリンピック道路をすっ飛ばして大町を抜け、白馬から峠を越えて鬼無里へ。そうなのだ、奥裾花は長野市の奥になるのだから、岡谷からけっこう遠いのだ。奥裾花観光センターに着いたのは1時20分、2時間以上もかかってしまった。すぐに自然園入口行きのシャトルバスに飛び乗る。バスの中にはツッカケをはいてイチゴ味のソフトクリームをなめるおじさんやらおばさんやらで、長靴をはいてザックを担いだわれらの方が場違いな雰囲気である。 ![]() 自然園入口のバス停から、舗装路を歩いて5分ほどで今池湿原。湿原に水芭蕉が咲いているあまりにありふれた風景に、私はちょっと照れてしまった。まるで化粧品のポスターのモデルが、こちらを向いて微笑んでいるかのようでもあった。水芭蕉もモデルもきれいなのだけれど、ポスターのモデルが私の目を見て微笑んでいてもちっともリアルに感じないのと同じだ。なぜか風景としての感動が湧いてこない。 ![]() ブナの大木の根元で遅いお昼を食べる。今日のお昼は「こめはなや」の五目ちらしをわが店先からかっさらってきた。雑穀ごはんの酢飯に椎茸煮、錦糸卵、きゃらぶき、酢人参、コシアブラのおひたしの五目。・・・おいしい。幹のモザイク模様が美しい。ブナは芽吹き始めていたが、まだ新緑というにはほど遠く、枝の先にちょこっと若葉が見える程度であった。 ![]() 水芭蕉の今池を離れ、残雪のブナ林を登って吉池へ。 ![]() 人が群れる今池の喧噪に比べ、ひっそりと静まり返った吉池にほっとする。樹齢300年のトチの木が静かな水面に映える。池の中にはクロサンショウウオの真っ白な卵塊がたくさん沈んでいた。もうすぐ卵から幼生が孵化し、池にばら撒かれるのだろう。その幼生を狙って様々な生き物が池を訪れ、たくさんの木々が見守る中でまた今年も命の連鎖が始まる。 帰りはバスに乗らず、歩いて下る。観光センターの駐車場に着くと、もうすぐ4時になるというのに観光バスが到着して、おじさんおばさんが大挙してシャトルバスで自然園に向かって行く。ここはもうすっかり自然園という名の観光地なのだ。大して必要でもなかった長靴を脱ぐ。苦もなく水芭蕉が咲く湿原に辿り着いてしまうことで、その湿原が貴重な存在であるという認識を薄めてしまうことにはならないのだろうか。観光気分でちょいとツッカケのままで見ることができる水芭蕉を、わざわざ長靴まではいて見に来てしまったわれら二人は、そそくさと奥裾花を後にした。 ▲
by organic-cambio
| 2010-05-20 15:12
| 戯れ道中
|
Trackback
|
Comments(0)
人間はビール瓶のようである。
なんだよ、いきなり。ビール樽のような腹をして・・・なんて言わないでね。こう見えても昔はビール瓶のようにほっそりしていたんだから。カミさんだって昔はコーラの瓶のようにくびれていたのに今は一升瓶・・・、おっとっと、そんな瓶の形の話ではないのだった。 10年ほど前まで、このギョーカイのモノ好きな店では「ビールキット」というものが売られていた。ビールの素になるモルトと王冠などがセットになっていて、自分でビールを仕込み、瓶の中で熟成発酵させて地ビールならぬ「自ビール」を作ってしまおう、というものだった。仕込んだビールをいくつか頂いて飲んでみたけれど・・・、まあ、その、ビールといえば酒屋で買うものという固定観念を破ったことに大きな意義がある、という代物でありました。下さった皆さん、ありがとう。 その「ビールキット」も、瓶は市販のビール瓶を使う。ベルギーで作られるシメイビールにも、瓶内発酵ビールというのがあって、ビールといえば工場で飲めるまで仕上がったものだけではないのだ。瓶の中に材料と酵母が入って発酵する温度や時間の条件がそろえば、おいしい(?)ビールになる。 そこが人間と似ていると思うのである。 子供のころに小さかった瓶は、成長とともに大きくなってくる。そこに学校で習った知識が流れ込んでいく。続けてきたスポーツや、習ってきたピアノなどもエッセンスとして加わる。読んだ本や観た映画などで得たエキスも入る。旅行で見た風景、海で見つけた貝殻、夜の森で聞いたフクロウの声、みんなで食べたバーベキューの味、可愛がっていた犬が死んだ日の涙、友達に裏切られた悔しさなどなど、みんな瓶に溜まっていく。そうやってたまったモルトが、時間をかけて発酵していく。 基本的なモルトのベースは学校で習う知識なのだけれど、それ以外のさまざまな体験が知識を分解して吸収しやすくする酵素になり、本や映画などで得たエキスが酵母の役割を果たして発酵を促し、家庭が温度や時間などの環境を整える。この発酵する工程を親がうまく見守り、よい味になるように酵素や酵母を加えてやることが大事なのだ。酵素をやりすぎてもいけないし、酵母を与えすぎて瓶が破裂しては元も子もない。モルトを早くから詰め込みすぎても瓶がもたない。 中学校までは全てが同じ工程を経て、卒業式で同じ柄のラベルが瓶に貼られるのだけれど、そこからそれぞれ違う味付けの工程に進むことになる。学校での知識の習得もそれ以外の体験も、読んだ本ややってきたスポーツもみんな違うし、家庭という環境もすべて異なっているから、ひとつとして同じ味のビールはできない。そして、いろいろな味のビールが世の中に存在することになる。 それなら何もビールでなくても、味噌だって糠床だってクサヤのつけ汁だっていいじゃないか、と思う方がいらっしゃるかもしれない。それでもビールに例えたのは、個人的な体験による。私は頭のてっぺんでビールの栓が開き、身体から泡が吹き出すような体験をしたことがあるのだ。つづく・・かも 2010/5/18 ▲
by organic-cambio
| 2010-05-18 17:53
| 店主の雑言
|
Trackback
|
Comments(0)
八百屋には「玉葱剥き」という仕事がある。店頭に並べたときに薄皮がはがれて散らからないように、予め玉葱の薄皮をきれいに剥いておくことである。それは何の技術も必要としないまったくの単純作業で、しかも営業的に前向きでも生産的でもない余計な仕事なのだが、なぜか人をひきつける不思議な仕事なのである。
玉葱は湿気が多いと傷みやすいので、長く保存するためには乾燥させておかなくてはならない。だから幾重にも重なっている鱗片の外側は常に乾いてかさかさになっている。一番外側の鱗片は完全に乾ききってしまうと紙のようになって、それ以上の乾燥から玉葱自身を守ろうとする。それがあの茶色い玉葱の皮である。 初夏の今時分は九州から秋植えの新物が入ってきていて、まだ乾燥も十分ではない。そんなフレッシュオニオンのまるでオブラートのように繊細な皮を念入りに丁寧に剥く。皮が薄いだけに皮むきをおろそかにすると、お客さんが手に取ったときにはらはらと皮がめくれて落ち、玉葱のカゴの周りが皮だらけになってしまう。それを春の乾いた風が巻き上げてさらに散らかす。見かけによらず神経質な八百屋はそれをとても嫌う。だから玉葱が入荷するたびに八百屋は玉葱剥きの時間を割かなくてはならない。忙しいときはそのまま剥かずに出してしまいたいと思うこともある。それでもどこかで時間を作り、店を閉める時間を延長してでも玉葱を剥いてしまうのだ。 玉葱がまとっているぼろ布のような皮を手のひらではがす。オブラートのような薄皮は指の腹で毛羽立ててつまんではがす。目と指先に神経を集中させ、両手で包み込むように玉葱を押さえて一つ一つをきれいに仕上げていく。箱から引き揚げたときは薄汚れていた玉葱が、まるで風呂上りのようにつるつるになって別の箱に移されていく。玉葱がきれいになることがまるで自分がきれいになることのように思えてくる。ああ・・・、もっときれいにしてやりたい・・・。八百屋はどんどん玉葱剥きに入りこんでいく。 さらに神経の集中度が高まると、ふっと意識は宙を飛ぶようになる。玉葱の中に宿っていた精霊が八百屋の奥深くに入り込み、外れていたコンセントや切れていたスイッチを入れなおしてくれる。すると今まで見えなかったことや気がつかなかったことが目の前に現れたり、なんでもない問題の解決方法がいつも問題を裏側から見ているためにわからなかったのだと急に気がついたりする。 やがて玉葱と一体化した八百屋は恍惚となる。手の中にある玉葱がいとおしくなる。掌は玉葱の肌を撫で回し、指先は毛羽立った薄皮を求めてさまよう。気がつけばそれは本人にとっては至極幸福な状態、他人が見るとある種の危険な状態に陥ってしまうのである。 八百屋は今、その状態で玉葱を剥き続ける自分の姿を想像し、猿にらっきょうを与えると猿はいつまでも皮をむき続け結局何も食べられない、という悪い話を思い出すのであった。 2005/5/10 ▲
by organic-cambio
| 2010-05-16 08:53
| 店主の雑言
|
Trackback
|
Comments(0)
多治見の「ギャルリ百草」には、カミさんの強い希望があった。その衣と器をテーマにしたギャラリーは多治見の街から少し山に入ったところ、若葉茂れる雑木林のしたたるような緑の中にあった。名古屋から移築したという古民家と、その周りの緑そのものがギャラリーとして存在しているような空間であった。
カミさんがすっかりと衣にハマリ込んでしまっているので、私はコーヒーを飲みながら若葉の緑を堪能することにした。 ![]() コーヒーもおいしかったけれど、この窓の眺めもおいしかった。ボーっとしている間に、カミさんはサロンという長いスカートや、高価なスカーフなどを手に入れていたらしい。それがいくらしたかなんて野暮なことは、目に余るほどの緑がおツムの緊張を最大限に緩めてしまったので、あえて訊かないことにした。 多治見から瀬戸まではすぐだった。なだらかな山を越え、瀬戸の古い街に入って行くと「窯垣の小径」という看板が目に入った。「百草」については詳しい予習をしてきたが、瀬戸については何もしらずにやってきた。それでも「窯垣の小径」という名に惹かれるものがあったので急いでUターン。古い家に囲まれた狭い道を奥に入って行くと、資料館と駐車場があった。資料館はすでに閉館時間を過ぎていたが「窯垣の小径」を歩いてみた。 ![]() 窯垣とは、瀬戸焼の窯で使った道具や焼き物で土止めの壁や垣根を築いたもの。家々の間の路地や細い坂道の壁に、焼き物が積み上げられている。この壁は特に見事なので立ち止まっていると、ご主人がやって来ていろいろと説明をして下さった。 ![]() 丸いのも四角いのも、登り窯の中で焼き物を焼くために使った窯道具。よく見ると一つ一つに窯の紋が入っている。人の手で積み上げられたものは、時を経て草が生え生き物と馴染む。つるりとしたコンクリートにはまねのできない、小さいながらも虫や草の輪廻転生の舞台となるのだ。 ![]() 「窯垣の小径」は谷間の斜面を辿る路地なのだが、それは職人が窯に通う道だったらしい。職人は谷の斜面を切り開いて家を建て、谷の平には窯と窯元の屋敷が広がっていた。「窯垣の小径」を下ってくると、こんな窯垣と漆喰が居並んだ美しい光景に出くわした。石積みも、窯垣も、漆喰も、丁寧な人の営みは時を経ると美しくなる。その営みを下支えした職人たちは、毎日この道を通いながらどんな思いでこの壁を眺めたのだろうか。 ▲
by organic-cambio
| 2010-05-13 17:18
| 戯れ道中
|
Trackback
|
Comments(0)
ちょうど40年前の中学2年の社会科は、歴史の授業だった。担当のオチアイ先生は大柄でメガネをかけていて、ときどき生徒を指名して質問を投げかけ、答えが正しいと大きな声で「その通~りです!」と叫び、眼鏡の奥の比較的小さな目を精一杯見開いて全身の動きを止めるのが特徴だった。
ボクにとって社会科は数少ない好きな科目のひとつだったのだけれど、歴史のテストの点数は1年の時の地理に比べてだいぶ悪かった。それはボクの頭の性能だけでなく、オチアイ先生の授業がこちらの理解にかかわらず、いつも一方的に進んでいくことにも問題があるように思えた。 よく指名を受ける優等生たちの答えで「その通~りです!」となれば、クラス全員が理解できたかのようにどんどん次へと教科書のページが進んでいってしまう。滅多に指名を受けず、受けてもしどろもどろの答えしかできないボクは、いつも窓の外へ虚ろな視線をさまよわせていた。おまけに開いている教科書のページがみんなとは違っていたから、今どこの話をしているのか見当もつかなかった。 窓の外はのどかだった。広い校庭の向こうに桜並木があって、その向こうにはキャベツ畑が広がっていた。時々畑のおじさんがリヤカーに桶をいくつも積んでやって来て、キャベツの畝の間に長い柄杓で何かを撒いていた。それが何かボクは知っていたけれど、あまり気持ちのいいものではなかった。 キャベツ畑の向こうには私鉄の線路があって、5~6分に1本くらいの割合で電車が行き来していた。当時、その私鉄の電車は塗装を更新していて、新旧の車両に2種類の塗装があった。ボクはノートの隅に4つの欄を作って、電車が通るたびに種類を正の字で数えたり、次に何が来るかを予想した。 それに飽きると、今度は白昼夢に耽った。片思いの3組のあのコから告白を受ける・・・、運動会のリレーにアンカーで出場してぶっちぎりでテープを切る・・・、生徒会の選挙で演説をぶって拍手喝さいを浴びる・・・。眼鏡をかけたチビで貧弱な劣等生が、一躍学校のヒーローになって・・・というところで、歩きながら授業を進めるオチアイ先生に、「ここじゃない!」と、いきなり後ろから指で教科書をつつかれて、哀れ白昼夢ははじけ飛んでしまうのだった。 窓の外で満開の八重桜の枝が揺れている。その前をひっきりなしに車が通って行く。けだるい午後のアイドルタイムは、40年前の中学2年生にタイムスリップ。おツムはいまだに劣等生のまま。 2010/5/11 ▲
by organic-cambio
| 2010-05-11 16:40
| 店主の雑言
|
Trackback
|
Comments(0)
赤沢宿のことを知ったのはつい最近のことである。
全国の伝統的な民家を撮影した写真集の中で、身延山の北にある宿と紹介されていた。石畳を挟んだ両側に連なる古い旅館の、朽ち果てそうなたたずまいに目を奪われた。街道筋でもない山中になぜそんな古い宿がたくさん連なっているのか、という歴史までは読み込まなかったが、近いうちに訪れることになるだろうと地名と大まかな場所を記憶のクリップに挟んでおいた。 好天に恵まれた5月連休の最終日に、赤沢宿を訪ねるチャンスがやってきた。店を2日休んだ上に、最終日もスタッフに店を任せて遊んでしまおうと欲張ったのである。朝10時にセットし終えた店をスタッフに引き継いで、帰京する車で殺気立つ中央道に乗り、双葉から中部横断道で増穂へ。さらに国道52号で鰍沢を抜け、身延にちょうどお昼時。 さらに仙丈ケ岳や北岳周辺の水を集めて流れ下る早川を遡ったところに、赤沢入口という小さな看板を見つけ、南へ。沢の左岸沿いの道を登っていくと、行き止まりになってしまった。ちゃんと予習をしてこないから間違えてしまったのである。車を降りて道端の地図を見ると、この地の成り立ちがよくわかった。 ![]() 赤沢宿は、身延山から七面山に至る参詣路の宿場だったのである。日蓮宗の総本山である久遠寺から霊場の七面山に参詣する人々が、身延山を越えて赤沢宿で夜を過ごし、身延山よりはるかに険しい七面山に向かって行ったのだ。 細い車道がこの先も続いているようなので、戻らずに赤沢宿に向かう。いつ落石があってもおかしくないような険しい道を、日蓮さんに手を合わせて無事をお願いしながら通り抜けると、ひょっこりと集落の真ん中に出た。集落の中をさらに登ると、赤沢宿の石畳の坂道があった。 ![]() 板戸が閉まったままの宿が、ひっそりと石畳の両側に連なっている。 ![]() 宿の軒下には定宿にしている講の札がずらりと並び、街道筋の宿場とは違った趣を醸している。 ![]() 軒下に下がる屋号札と、その向こうの山肌まで広がる空間が美しい。坂道は急傾斜で狭く、車はとても通れない。石畳の坂道の宿場と言えば中山道の馬籠宿を思い出すが、はるかにスケールは小さく、背景は雄大である。 ![]() 宿の前に長椅子があったので、拝借してお昼を食べる。身延のスーパーで調達してきた稲荷寿司と太巻き。通りに面していても滅多に人は通らないので、ひっそりとした宿場の雰囲気を丸ごとひとり占めであった。 ![]() 坂道に覆いかぶさるようにハナモモが咲く。私は坂道の多い街で育ったので、細い路地と坂道の風景を見ると子供のころに帰ったような気分になってしまう。おツムはいつも子供のままだけれど・・・。板塀とその後ろのガラス戸が懐かしさを倍加させた。 ![]() 宿場の下から登り返すと、違う風景になる。下りが七面山の険しい山肌を背景にした天空の宿場を思わせるのに比べ、上りでは古い宿の建物がのしかかってくるようだ。左に見えるのは若山牧水の歌碑。 この間、出会った観光客はわずか2組。宿場とはいえ、全ての宿は固く板戸を閉じ、坂道には地元の人の姿もまったく見られなかった。時々吹きわたる風に、板戸が揺れてゴトゴトと音を立てる。かつて白装束の信者が大挙して七面山に向かった時代には、この坂道にもあちこちに座って話をする人たちが群れていたに違いない。いまは身延山から車で七面山に向かうルートが一般的になり、赤沢宿は街道筋の宿場と同じように、朽ち果てる運命を辿ろうとしている。しかし、街道筋の宿場が普遍的な歴史の中に存在したのに比べ、この赤沢宿は日蓮宗の参詣という固有の歴史の中でしか成り立たなかった分、恐らく朽ち果てる速度は街道筋の宿場に比べて速いのだろう。 この赤沢宿が最もにぎわった時代は、大戦前夜だという。それ以来、板戸のシミだけが着実に年月を刻んでいるように見えた。石畳の坂道は数十年の間、時が止まったままである。 ▲
by organic-cambio
| 2010-05-09 11:10
| 戯れ道中
|
Trackback
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||