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先週のある日、ケータイを充電しようとしてちがう機種の充電器をジャックに突っ込んでしまい、抜けなくなって販売店に駆け込むというドジをやらかした。あらゆることを試みても抜けなかったのに、窓口で応対したおねえさんはわずか5秒ほどで抜いてしまった。「どうやって抜いたの?」と目を点にして尋ねると、「魔法があるんですよ、ウフフ」とあしらわれてしまい、まるで年寄りが新しい文明に翻弄されているかのような気分で帰ってきた◆昨年の今頃は、長いこと使っていたケータイが通信方法の変更で使えなくなるからタダで新しい機種をくれるというので、ノコノコと渋々とこの販売店に出向いて、今使っているケータイに取り換えた。その際にスマホにすることもできるというので、少しだけ食指が動いた。それでも結局ガラパゴスと揶揄される今までと同じタイプのケータイにしたのは、使い方がわからないからでも設定が難しいからでもなく、使う場面、必要な場面が想定できなかったからだった◆都会に住んで電車で通勤する人たちの間では、もうスマホが圧倒的な割合らしい。駅で電車を待つ間、車内で目的地に向かう間、お昼休みなどに手元で何でも済ませることができる。でも、家から仕事場まで車で通い、仕事場には常時ネットに接続したパソコンがある生活だと、機能的に優れていると言われてもあえてスマホを持つだけの必要性を感じないのだ。大きな組織で人を束ねているためにメールが頻繁に入るわけでもないし、ブログやSNSでたくさんのフォロワーがいるわけでもない。たまに家族からメールが来たり、生産者からの連絡が電話で入ったりする程度。この程度ならいっそのことケータイ自体必要ないのでは、とも思うのだけれど、持っているのが当たり前の世界になってしまうと、持たないことを理解してもらうことに不要なエネルギーを費やすことになってしまう。それがまた面倒くさい◆そんな文明の変化のスピードはどんどん速くなっているようで、自分が持っている時計の速さとだいぶ合わなくなってきた。場面に応じてスピードに乗り遅れないように時間感覚のねじを巻き直しても、うっかりするとかなりずれてしまっている。焦りを感じる日々。2013/1/29
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by organic-cambio
| 2013-01-29 16:36
| 店主の雑言
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開業から8年前までの13年間を過ごした店は、8軒長屋の一角だった。踏切がすぐそばで、店の駐車場の隅に公衆電話ボックスがあった。携帯電話が普及する以前だった開店間もないころは、公衆電話を利用する人も多かったので、われらの店の駐車場に車を止めて長電話をする人が絶えなかった。特に佐川急便のドライバーが常習犯で、集荷先に荷の有無を尋ねるらしく、夕方になると毎日現れた。エンジンをかけっぱなしで駐車するので排気ガスが店に入ってきて臭くてたまらず、何度も文句を言った。でも、稼ぎが懸かっている彼らも必死だから、いくら言っても屁の河童だった。今や佐川男子は配達先でアイドルのように胸をときめかせて迎えられるらしいが、昔はずいぶんやくざなドライバーが多かったのだ◆やがて携帯電話が普及すると、店の近くの公衆電話はあっさりと撤去された。まだ「ケータイなど持つもんか!」と粋がっていた私は、出先で公衆電話を使うことが多かった。だから、NTTは公衆電話をどんどん撤去してDocomoを使わせようとしているのではないか、と悪意に考えたものだった。それから数年も経たずにケータイを持たないことが世間の都合とは折り合わなくなり、結局ケータイを持つことになってしまったのだけれど◆耳に口に限りなく近づけて使う電話が個人の持ち物になってしまうと、不特定多数で使う公衆電話の受話器というものが、とても不衛生な代物に思えてしまう人が多いらしい。特にインフルエンザや風邪がはやる今時期になると、咳をしている人が使った後では使いたくないという気持ちはよくわかる。電車のつり革をつかむのにさえ使い捨ての手袋を使う人がいるという世の中だから、誰が使ったのかわからない受話器を耳と口に近づけるのが怖いという人がいたって、まったく驚くには及ばない。電話に限らず機械や設備がどんどんパーソナルになれば、不特定多数の人が触れるものに神経質になるのは当然の成り行きだから◆最近はその公衆電話が、災害時に便利なのだとニュースになっていた。大震災などの災害が起きると、安否を尋ねる通話が殺到して電話がつながりにくくなる。携帯電話の通話は真っ先に制限がかかるのでつながらなくなるそうだが、メールは通信方法が違うのでつながり易いらしい。さらに、一番つながり易いのは公衆電話なのだとか。災害時などに優先してつながるようにしてあるそうだ。これはよく覚えておこう◆ケータイで個別に誰とでも話ができるようになって、電話は個人のブラックボックスと化した。夫婦や親子でも相手が誰と通話したかがわからない。だから息子や娘がどんな友人関係にあるのか、彼氏や彼女がいるのかどうかが分かりにくくなった。パパが知らない女の人にラブラブメールを送っても、ママがケータイを覘いたりしなければばれない。だからケータイを後生大事にして、絶対他人に見せないパパはちょっと怪しいということになる。いや、いろいろ事情はあるから一概には言えないけれど、少なくとも我が家のオヤジはしょっちゅうケータイを置き忘れるので、何事も隠しようがない◆家に一台しか電話がない時代は、思えば何もかもがバレバレだった。娘や息子に知らない異性から電話がかかってくると、親は耳がダンボのように大きくなった。だから、電話機のコードを目いっぱい引っ張って隣の部屋に持ち込んだり、ふとんをかぶって話をした。関係が安定して定期的に長話をするようになると自前で親子電話にしたが、破綻すると長電話がなくなるのですぐにバレた。絶対に聞かれたくない話の場合は公衆電話を使った。しかも、近所の公衆電話では知り合いに見つかる可能性があるので、遠くまで車で出かけてかけた。暗闇に浮かぶ公衆電話のボックスは、はるか遠くの相手とつながることができる、絶海の孤島から光を放つ灯台のように見えたものだった。 2013/1/22
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by organic-cambio
| 2013-01-22 16:06
| 店主の雑言
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年末に図書館で本をしこたま仕込んだが、寝込んだり出かけたりで大して読めないまま返すことになった。その中に「本にだって雄と雌があります」というとぼけたタイトルの本があって、読み切れなかったがなかなか面白かった。本を読むのが生きがいの祖父さんの本は家のありとあらゆる場所を占領し、なおかつ雄の本と雌の本は夜な夜な事をいたして本の間には本の子供が生まれている、というファンタジーというにはかなりセピア色ですり硝子と裸電球が似合うお話◆その手のお話本にはとんと縁がない私がその本を借りようと思ったのは、そのタイトルと文体が気に入ったからだったのだけれど、これが本屋だったら絶対に手にすることはなかっただろうと断言できる。図書館が好きな理由は、こんな自分の好みとは畑違いの本にも気軽に首を突っ込んで読んでみることができるというところ。本屋には並べる本が売れるかどうかという当然の選択があり、厳しい状況の中で商売を成り立たせるための当然の制約がある。図書館ではそんな制約がない上に、過去に出版された本も並んでいるからとても贅沢な空間になるのだ。書架の間を歩いていると、どこからともなく「どれを読んでもいいんだよ、いくら読んでもタダなんだよ」という誘惑の声が聞こえてくるような気がする。そして、いつの間にか、どう考えても読み切れない数の本を抱えて歩いていることになる◆本を愛する人は、本を読むことにとどまらず本を所有することも愛している方が多く、件の祖父さんのように家の中を本が占領してしまうということが起きるようだ。知的な人はほぼ間違いなく多くの本を読んでいるから、蔵書の数はその人の頭の中を表していると言っても良いのかもしれない。でも、知的とはいっても病ダレのついているわが頭は、とても他人にお見せできるどころか隠しておきたい最たる部分なのだから、なるべく蔵書などは持たない方が良いのだ。おまけにビンボー人の子だくさんを絵にかいたような経済状態なのだから、本を読むならタダにこしたことはない◆そこで今後は「本と財産は持たない」を座右の銘とすることにして、さらに徹底することにした。本は家を狭くするし、分不相応な財産はココロを狭くする。このふたつを持たないようにすると、きっと将来は身軽で幸福な毎日を暮せるだろうと信じている。実は今は多少の財産があって、時々その存在に惑わされる時がある。財産は減ることがあってはならないのでひたすら守ることに汲々とするものなのだが、太っ腹なわれらは毎月少しずつ減らしてしまう。どこかの国はデフレ脱却のためにインフレに目標を定めるらしいが、どうせなら2%なんてセコいことを言わずに、ゼロが三つも四つも増えるほどのハイパーインフレになってデノミをしてくれないかと願うほどだ。そうなれば財産は紙切れのようになってしまうけれど、頭に横棒がついているわれらの財産は、無くなってしまってもちっとも惜しくはないぞ◆座右の銘を定めて煩悩を振り切ったおかげで、昨年末は宝くじを買わなかった。毎回買うほどではなかったが、時々楽しみに宝くじを買っていた。いつも当たらない上に末等の300円を換金しないので、カミさんからはカネの無駄だと不興を買っていた。昨年末も正直に言うと、宝くじ売り場のそばを通りかかったときは美女のささやきにココロが揺れたのだが、お金を持っていなかったので買わずに通り過ぎた。夏には配達の途中でいつもと違う売り場で買ったのだが、すでに売り切れ近くになってバラしか残っていなかったせいか、かすりもせずにカミさんの冷笑を浴びた◆年が明けたある日、地元紙のニュースを見てわがココロはざわざわと音を立てた。あのいつも買う宝くじ売場から1等と前後賞計6億円の当たりが出たという。県内ではここだけだそうだ。しかも連番ではなくバラの中から。そうか、もし誘惑に負けて売れ残りのようなバラを買っていたら、そんな大金が転がり込んだかも知れなかったのか。そうか、買わなくてよかった。万が一当たっていたら、ココロの狭い自分はきっと道を踏み外しただろう。店を休んで遠くの国へ遊びに行くことを考えたり、似合いもしない高級車を買おうとしたかもしれない。採算も考えずに店を大きく作り変えようとしたかもしれないし、何よりも毎日休みなく働くことができなくなっただろう。よかったよかった。宝くじなんか買わなくてよかった。万が一当たっていたら、人生ガタガタになるところだった。よかったよかった。当たらなくてよかった。本と財産は持たないのだから。よかったよかった、ほんとによかった。これでいいのだ、うん、うん。 2012/1/15
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by organic-cambio
| 2013-01-15 17:45
| 店主の雑言
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みなさま、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお付き合い下さいませ◆昨年の暮れは寒さが厳しかったせいか、体調を崩す人が多かったようです。われらが店でもスタッフがダウンしたり、研ぎ玄のKさんが珍しく風邪で咳をしたり。店主も大晦日の店を片づけた後でおかしくなり、元旦は不調のまま。二日は朝から2食を抜いて胃腸に気合を入れ、関西の妻の実家へと向かいました◆2食を抜いて迎えた晩のごちそうはすき焼き。関西のすき焼きは豪勢です。肉屋でグラム680円の牛肉を1㎏もポンと買い、「ただの黒毛やったから安いわ。これが近江やったら1万、神戸やったらもっと高うなるとこやった」と言います。決して妻の実家はお金持ちではなく年金暮らしなのですが、牛肉に対する感覚は、関東平野で江戸時代から続く百姓の末裔の小倅である私の感覚とはちょっと違うのです。その牛肉を鉄鍋に惜しげもなく突っ込んで砂糖をごっそりかけ、醤油と酒をドバドバッと注ぐ。割り下なんてセコいものは使わないで、肉の旨味と野菜の水分だけで煮て、生卵を溶いた小鉢に取って食べます。ただの黒毛とはいえ国産和牛の霜降り肩ロース。これは一年で数少ないごちそうだというのに、わが胃腸も十年に一度と言えるほど珍しい不調の最中。まったく皮肉な一年の幕開けでありました◆どこへ出かけても街並みが同じような作りになってきたように、あらゆるものが全国で平準化されていく中で、食べ物にはまだ地域性が残っています。FOODは風土が作るものであることはまだかなり残されていて、関東人の私は関西に行くと食べ物文化の違いを強く感じます。牛肉の志向性も関東と関西でははっきりと数字に出るらしい。さらに違うのが魚。関東は銚子や小名浜で揚がる魚が多かったのですが、関西は瀬戸内海と若狭や山陰の日本海,紀州や四国の太平洋と昔から産地や魚の種類も豊富だったようです。関東にも江戸前の寿司ネタのように昔から新鮮な魚や佃煮がありますが、関西にはクエやらハモやらてっちり、明石のタコに鯛などその種類の豊富さは関東の比ではありません◆その関西で中学1年まで育った妻が、関西に行くと必ず買うのが播磨灘で採れたイカナゴを醤油とみりんで煮た釘煮。毎年、正月には出かけた先でいくつもの釘煮を買い込んできます。子供のころから食べてきた味はいくつになっても忘れられないもので、食べ物の地域性を掘っていくと面白いことがたくさん出てきます。だから私は、知らない土地に出かけたときは必ずスーパーに入って魚売り場と野菜売り場を覘きます。民俗学者の宮本常一は初めての土地に行くと必ず高いところに登って地勢を見たそうですが、食べ物を商う私はまずスーパーでその土地を食べものから知ろうと試みることにしています◆今年の関西からの帰り道は京都の錦市場に立ち寄って、漬物をしこたま買い込んできました。奈良漬に日野菜のふすま漬け、すぐき漬けに湯葉。正月明けの五日なら少しは荷が入っているかと思ったのですが、賑やかだったのは生鮮品よりも漬物や惣菜の店。八百屋の店先には京野菜も並んでいましたが、その値段のすごいことに驚きました。小松菜380円、水菜420円、ブロッコリ500円。堀川ごぼうが1500円するのはまあ仕方ないとして、東京生まれの小松菜を京野菜というのはおかしい。ブロッコリ500円は論外◆そこで見えてきたのは、この錦市場ももう観光地としてしか機能していないということ。地元の人たちがこんな値段の野菜を日常的に買っているとは思えませんし、こんなに観光客で込んだ場所にわざわざ買い物に来る人が多いとも思えません。料理店に卸す野菜や魚は店に並べる必要はないし、地元の人はもっと別の場所で買っているはず。全体が観光地である京都という理由とともに、食べ物の流通が大手資本に握られてしまって地場流通が成り立たない、という日本全国共通の現象がここにも表れていてさびしく思えました。2013/1/8
※今回より、週刊CAMBIOに掲載している体裁で投稿することにしました。 ■
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by organic-cambio
| 2013-01-08 15:59
| 店主の雑言
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