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先週の「まめやトーフライブ」には、まめや一家の子供たちも全員がやってきて賑やかに過ごしました。「トーフライブ」は豆腐の話だけでなく、5人の子供たちと豆腐屋夫婦の暮らし方もテーマのひとつだったので、子どもたちの顔を見ながら話を聞けたのは参加者にとってリアリティがあることだったでしょう。すっかり子育てが終わった私も、懐かしく和やかな時間を過ごすことができました。
まめやの子供たちと我が子供たちは性別や年齢構成がよく似ていて、ちょうど20年前の我が家の雰囲気を思いだします。彼らには2歳の5人目がいるところがちょっと違いますが、子どもたちが群れて過ごすときに起きることや、きょうだい同士の関係性もよく似ているのです。姉ちゃんが一応みんなの動きに目を配っていたり、兄ちゃんはみんなを見ながらちゃっかり自分のことをやっていたり。 今どき4人も5人も子供がいる家は珍しいかもしれませんが、田舎暮らしや自然との関りを求める人の中には今も子だくさんが多いように見受けられます。子どもの存在を希望ととらえたり、生命を育てることに生きがいを感じたりするからでしょうか。我が家のように無謀なだけの場合もありますが。 一番下の娘も今年で23歳になる我が家の子育てを振り返ると、父親としてはもっとこうすればよかったという反省ばかりが思い浮かびます。未熟だった父親は、今頃になって子供たちが挙げた声や起こした行動の意味が分かってきたところで、もう一回やらせてもらえばうまくいくだろうと思うのですが、すでに世代はひと回りしました。孫を相手に子育てするわけにはいきませんし、孫いませんし。 まめやの子供たちは朝起きると近所の家に新聞を届けに行きます。全部で11軒。一日60円のアルバイト。大人は一軒あたりいくら?と考えてしまいますが、子どもたちにとっては、何かをすることで対価が得られるという体験としての一日60円は大きな金額なのです。それをやらせてあげる親にも周りの家にもおおらかに子供たちを育てようとする配慮があって、よい環境なのだなぁと思います。 そんな新聞配達をすることになったきっかけは、まめやの店舗前にあるジュースの自販機だったそうです。子どもたちはジュースを買って飲んでみたいのだけど、自分たちにお金はない。そこでまめや夫婦が子供たちにあげたのは、ジュースを買うお金ではなく「ではどうしたらよいか」という提案でした。毎朝新聞を配ることで、わずかではあるけれどお金を生み出すことができるという方法でした。 子どもと話しをするときに目線が平行になるまで屈みこむように、子どもたちを育てることは考え方も子供のレベルに合わせる必要があります。ところが大人には多少の知恵があるばかりに、大人の論理で考え方を押し付けてしまう。こうした方が得だよ、この方が楽だよ、と。大人になる段階で経験して身に着けた物事の処し方を知る過程をすっ飛ばして、損得の結果だけを子供に教えようとする。 今の時代では親が教えるかどうか以前に、子どもたちがネット環境を早くから得るために、体験して知る過程をすっ飛ばして結果を検索して知ることができます。これはある意味で、子どもたちにとって不幸だと思います。自分が課題に面した時、結果に至る過程を自分で探すことができるか、あるいは結果を知る方法を探すのか。同じ答えに行きついたとしても得られることがずいぶん違うでしょう。 親も人間ですから楽で手っ取り早い方法を選びがちです。子どもに体験させるより、親の都合で子供たちに楽をさせてしまう。寒くても、雨が降っていても、自分で歩いて帰ってくることで得られる自立性を、心配だから、かぜをひいたら困るから、早くご飯にしたいから、などという理由で駅まで車で迎えに行ってしまう。宿題や勉強は塾にお任せで、家ではテレビ見ホーダイにゲームやりホーダイ。 子どもたちに課題を与えるということは、親も同じように課題を背負うということです。子どもは親を実によく見ています。子どもが精いっぱい努力しているときに、親がだらけているわけにはいかない。親の背を見て育つということは、親がどんな毎日を送っているかを子どもたちが反映して見せてくれるということなのです。ああ、ごめんよわが子供たち。オレは毎晩ただの酔っ払いだったよ。 ![]() ▲
by organic-cambio
| 2016-11-29 16:00
| 店主の雑言
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このところ毎日バナナ3本出るとか、12時間以上も仕事をしているとかバカなことを書いていますが、自営業はカラダが資本なので、自分の体調には神経質にならざるを得ないということの裏返しでもあります。常に良い状態でなければやり切れないほどの仕事を抱えて走っているので、良い状態を保てるように毎日の生活を組立てているし、そのために諦めざるを得ない欲望も少なくありません。
先週の月曜日は病院に半日も拘束されました。大したことではないと夏ごろから放っておいた不具合が一向に治まらないので、原因を突きとめておこうと思ったのです。修理が必要なことなら早くやっておかないと後々面倒なことになるし、様子を見ていればよいならそれでよいのだけれど、何だかわからないというのは一番始末が悪い。不具合を感じるたびに余計な妄想が広がって不安になるから。 基本的に簡素な造りであまり壊れるところがないカラダなのですが、製造後50年ほどたったころから病気にまでは至らない不具合が起きるようになり、修理や対策を施してきました。外科的不具合でまな板の上に寝かされたこともありますし、内科的不具合はホームドクターが管理してくれるのでちゃんと指示通りに薬を飲んでいます。基本的に病気になる前に自分の状態を知っておく、という方針。 今までで一番のピンチだと感じたのは、酒の飲み過ぎで内臓がギブアップしたことでした。そもそもあまり酒が飲めない体質なのに、少しずつ飲んでいるうちにカラダがアルコールに慣れてきて、気が付けば毎晩酔っ払うまで飲んでいました。子どもたちからは「くさい!酔っ払い!」などと嫌われても、疲れて帰ってくると焼酎が美味かった。それが15年ほど続いたある日、突然鋭い痛みがやってきました。それはかつて経験したことがないような鋭い痛みで、ただ事ではないことがわかりました。 シクシクとかズキズキという痛みではなく、ギンギンという刃物を奥深く差し込まれるような痛み。恐れおののいて酒をやめてドクターに報告すると、すぐに血液検査。慢性の疾患になっていることがわかり、酒の常飲はできなくなりました。その数年前にはタバコもやめていたので、一気に健康的な生活になり、おかげで本を読む量も増えました。でも、すぐに相談できるドクターがいなかったら、今も酒を飲み続けて破滅の道を走っていたかも。大病院よりかかりつけ医が個人にとっては大事です。 多少のことでカラダが壊れることはないという自信はありますが、やはりわけのわからない不具合というのはどうしても耐えられず、先週はパンドラの箱を開けに病院に行ったのです。診察や検査の関門を通るたび、何が飛び出してくるかと不安が付きまといます。その結果、自分では一つの原因だと思っていたことに二つの原因があり、一つは老化現象であり、一つは原因不明だがとりあえずの危険はないので様子を見る、という診断。うれしい結果ではなかったが、とりあえずホッとしたのでした。 最近は診察の結果、老化現象で劣化というパーツが増えてきました。来年2月でひと回りだから仕方がないのかなぁと思いつつ、カラダをだましだまし使い続ける方法が身についてきました。家には90になる老母がいて、その体癖をしっかりと受け継いでいるようです。周りがどんなに困ろうが自分もどうやらあと30年ほど世に憚りそうなので、きちんと手入れをしておこうと思っているわけです。 ![]() ▲
by organic-cambio
| 2016-11-22 15:30
| 店主の雑言
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そもそも八百屋の仕事とは朝が早いもの。早いと言ってもパン屋や豆腐屋ほどではないですが、彼らは作りきってしまえば午後には休みが取れます。でも八百屋は夕食の材料を買う人のために、暗くなるまで店を開けています。この店主の場合は、朝の6時半に家を出て帰るのは夜8時ごろ。毎日12時間は店にいて仕事をしてます。店に来る前に仕入れをしたり、家から往復する移動時間を合わせると、他人に公言するのが憚られるような毎日。長時間労働をブラックというなら真っ黒黒すけです。
それでも八百屋は誰からも文句を言われないのは自営業だから。誰かに雇用されているのなら問題になりますが、自分で勝手にやっているだけなんです。労働ではなくて仕事なんです。時間労働ではなくて成果で食っているんです。雇用ではなくて生業なんです。食っていけないから長時間なんです。 自分で店を構える前に仕事をさせてもらっていた店でも、やっぱり同じように長時間でした。だから自分ではこのくらいの時間を仕事に費やすのは、正直言って当たり前だと思ってます。長時間の仕事がすっかり身についてしまっている。おかげで休まないように体調を整える術や、熱が出たときの対処の仕方は普段の暮らしに役に立っているくらい。でも、他人に同じことを求めてはいけませんよね。 長時間働くのが日本の悪いところだというのが今の論調ですが、なんでも欧米と比べて良いとか悪いとか決めつけるのが私は嫌いです。それぞれの国にはそれぞれの歴史に基づいた文化があって、社会があって、価値観がある。出る杭はい打たれる国と自分の主張をすることで権利を獲得する国を、同じように比べてみたって無理なのです。日本には会社文化というガラパゴスの文化があるのですから。 少しだけ体験した会社文化の経験から言えば、日本人は会社の仕事を自分の仕事としてこなします。会社の仕事に対して自分の能力を契約の時間だけ提供する、などという考え方はありません。あるいは同じセクションにいても、自分に与えられたミッション以外は自分の仕事ではない、と言い切れる人は会社文化の中では生きていけない。同じ会社のみんなのために働くのが会社文化なのですから。 最近は会社文化に染まることなく、長時間の仕事を強いられても自営業でよかったと思うことが多々あります。私のようなアタマが固い人間が今も会社の中で仕事をしていたら、きっと世代間ギャップに苦しんだだろうと思うのです。自分たちが体得した仕事観で物事を考えても、若い世代には通じなくなっていたでしょう。今の会社がたいへんなところは、そんなギャップがどんどん深くなっていることだろうと思います。さっさと信州に逃げて、小さなタコツボに収まってよかったのかもしれない。 ![]() ▲
by organic-cambio
| 2016-11-18 18:29
| 店主の雑言
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我が家の老犬みかんは、固形のお漏らしをすることが多くなってしまった。夜は玄関のたたきで寝ているのだが、朝になって散歩に連れ出そうとするとふとんの上に固形が転がっている。寝ている間に新聞を取りに行く時はまだ転がっていないので、目が覚めたとたんに出てしまうようだ。もう15歳になり耳は遠くてほとんど聞こえないし、歯は抜けてしまって固いものは食べられない。介護犬の仲間入りかなぁ、と思いながら固形の始末をする。すみませんねぇという顔をするところがいじらしい。
犬はお腹が痛いだの調子が悪いだの言えないから、顔つきや動き方と何よりも出てくる固形の様子で調子を推し測ってやるしかない。お漏らしの固形は、玄関という狭い空間に転がっていてもあまり臭いを発しない。水分もちょうど良いので崩れることなく始末ができる。その状態からして老いてはいるけれど内臓の調子は良さそうだ。最近は散歩の途中で干しミミズの美味しさに目覚めたらしいし。 新たにひと棚古本市に加わった本の中に「腸を鍛える」という本があって、レジの合間に立ち読みをした。その中に「便でわかる病気の徴候」という章があって、しっかりと読みこんだ。そこには健康な人ほど便の量は多いと書かれていた。量が多いということはそれだけ腸内細菌も多いということで、食物繊維も多く腸内フローラのバランスが整っているのだそうだ。日本人の平均はバナナ1~2本ほど、野菜をたくさん食べるとバナナ2~3本分になるという。うんうん、なるほど。その通りだぞ。 我が家の食卓は野菜料理が多い。仕事柄当たり前ではあるのだけれど、一般家庭の倍以上は食べているだろうと思う。肉も魚も大好きだけれど、それ以上に野菜は美味しいし料理の幅が広い。肉の付け合わせに野菜があるのではなく、野菜料理の中に肉もあるという感じ。最近は野菜が高いと言ったって、単位当たりにすれば肉より相当安い。野菜中心の食事にしたら食費は相当安くなるはずなのだ。 そして腸内のバランスも良くなって、便の量が増えるだけでなく出が良くなる。八百屋の店主(私のことです)にいたっては、朝起きるなりバナナ3本分が出る。それは便でひらがなが描けるほどスムースで、洒落じゃないけど「し」や「り」は得意だ。うまく描けたときは誰かに見せたいのだけれど、顰蹙を買うことが明らかなので涙を呑んで流してしまう。こんど写真を撮ってインスタに載せようか。 出すタイミングについても、朝起きたときが一番なのだそうだ。前出の八百屋の店主は朝起きるとすぐにバナナ3本というのが自慢だが、それは理想的なのだそうだ。さらに色や臭いについても記述があって、野菜をたくさん食べることが腸の働きにとても良いということが確認できたのだが、あまり詳しくは書かない。想像力が働いて八百屋の店主を見ると、便を思いだすようになっては困るから。 ![]() ▲
by organic-cambio
| 2016-11-08 16:47
| 店主の雑言
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2階にたくさん並んだ古道具は、どれもまだ手が入れられていないものばかり。卓袱台はクモの巣がついているし、バケツは錆びたままだし、ガラスケースは埃だらけだし。でも、そんな古道具はとても格安で、自分で手を入れて使える人は掘り出し物感覚で買っていきます。出店している古道具屋も仕入れに来て、「ここから手を入れて並べるのが僕らの仕事なんです」と言います。依頼されたおたくの蔵を整理して、まだ使えそうな道具や家具を引き取り、それを丁寧に磨いてまた世間に送り出す。古道具屋とは、好きなだけでなく目が肥えていなければできない仕事なのです。おもしろいですよ。
古道具を求めてくださる方は若い女性が多いのが特徴です。なぜでしょうね? 何となく感覚的にわかるのですが、うまく言葉にはできない。100円ショップに売っているプラスティックより、存在感があることは確かで、天然素材で温かみがあります。それに加えて、そばにあるだけで家族のような親しみを感じるからかもしれません。かつての用途とは全く違う使い方をする場合があれば、使い続けた痕跡を生かして同じ用途に生かす場合もあるようです。使う人の暮らしや感覚でもう千差万別。 小さな子がうれしそうに自分用の椅子を抱えてレジまで来ます。「誰が使うのかな?」と訊くとニカァ~っと笑いました。若い男性が日の字型の棚を持ってきて「安いカラーボックスなんかよりよっぽどいいですよね」と言いながら抱えて帰って行きました。蓋つきの木箱を持ってきた女性が「箱も良かったけど中身がまた・・・」というので開けてみると、裁縫道具がぎっしりと詰まったままでした。 古道具にはそのものが持つ用途だけではなく、経過した時間も売り物です。古いから捨てるのではなく、ずっと使われてきた経緯をすり減り方や汚れ方で推し量り、過ぎ去った時間の厚みを買うのです。それは何でも手に入るようになった今だから感じる「人の営み」の豊かさを買うことでもあるのです。 ![]() ▲
by organic-cambio
| 2016-11-04 08:34
| 店主の雑言
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